縦裂FNO

俺はポエマー、すべてイカサマ。

「夜中にひとりで泣いちゃったり」他

1.「夜中にひとりで泣いちゃったり」

自分が理性を離れた瞬間を見つけるのは難しい。言語化される前の、イメージだけが巡り巡る感じ、それを覚醒した意識が捉える前に掴みたい。

鳴り響くアラームの後、5分間のまどろみ。寝ているのか起きているのか、そんな時、遥か昔に住んでいた遥か遠くの場所のことが、目の前というか、手元にあるような感覚になって、僕が布団の中で考えるのはさっさと起きて顔洗って歯を磨いて着替えてじゃあそこに行こかってことなんだけど、すぐに理性が戻ってきて無理なんだってことがわかる。

 

理性がもたらすのはやる気のない惨めな空腹。ただ冷蔵庫は空っぽで、食べ物を買いに行かなければならない。

年が明け、訪れる厳冬。家を出ると外は酷く寒かった。行き先は近所のコンビニ、さっきまでの夢を引きずりながら、というか、嫌々ながらセンチメンタルな気分でコンビニへ向かう。乾き切った冷たい風に背中を押されて、しかめっ面をしたら唇が切れた。

道中、温まるために買ったホットココア、しかし飲み干してしまうとただのスチール缶になって急速に冷える。もはや手に持つことすら厭われるので、缶のフチを前歯で噛んで両手はポケットの中。闊歩するたび鼻先に当たるプルタブ。飲み口に息が掛かるとボーッというマヌケな音がした。

 

僕の住む家はどんなものからも遠くにあるのではないか。駅からも、コンビニからも、勤務先からも、如いては社会生活からも。

ぼけぼけと歩いていると公園に差し掛った。誰もいない、誰も通らない。ベンチに座り、曇天の空を見上げる。視界に入るのは薄汚いマンションなのかビルなのか。その屋上に干されたタオルが力なく風に揺れる風景。こうしていることも何年後かに夢で思い出すことがあるのだろうか。理性の外に放りこまれる記憶、景色、出来事、人々。行く先々でのセーブポイントのような、そんななにか。

 

日に日に感情の数が減っている。今や2つか3つの感情だけを、行ったり来たりしている。だからコンビニで買うものも毎度同じ。美味しいだとか、不味いだとか、そんな感情すらも面倒だから、毎日なにも考えないで済むように同じものを買う。そしてそんな自分に満足して、感情の起伏が激しい他人を馬鹿にして、夜中に聞こえる冷蔵庫の音のように寂しげな気持ちなる。際限のない繰り返しの日々、ただ擦れ合う側面は削り取られている。いつしか本当のなにかにぶち当たることができるのだろうか。

 

2.「たくさんの気持ちが失われた時間の中にある」

1月中旬。客先に早く着きすぎた僕はベンチに座り、稲荷山公園駅前の殺風景を眺め過ごしていた。社用のスマホ機内モードに切り替え、自前のスマホのブックマークを4周ほどブラウジングし、忙しげな営業マンのように腕時計をちらりと眺め、さてそろそろか?と腰をあげようとしたとき、なにか手紙のようなものを読みながら駅に向かって歩く一人の老人が現れた。すると彼は急に立ち止まり、ポケットからライターを取り出し、躊躇うことなくそれに火をつけ地面に投げ捨てた。

手紙らしきものはみるみるうちに燃え上がり、吹き付ける風で散り散りになった。老人が過ぎ去った後、僕は紙の破片を拾い上げる。そしてそこに書かれた言葉の断片を確認し、客先へ足を向けた。

 

3.「人として最低限必要なもの」

足が汚れるのは地獄に一番近い部位だからで、頭が一番重要なのは天に一番近いからである。だから飛び降り自殺をするときは頭から激突する必要がある。天地をひっくり返す革命を夢見ながら頭を大地に叩きつけ、浜辺のスイカの如く頭蓋骨をかち割り、脳に詰まった愛のある思想をぶちまけなければならない。激突までの長い走馬灯、それが僕の人生で、蔓延る日常に辟易しながらも世界の真理を見つけることができ、よぼよぼの老人になって「良い人生だった」と目を閉じ呼吸を止めた瞬間に迫りくる地面は!!

 

4.「物質的にあり得ない」

会社の後輩にめちゃくちゃ頭の悪い奴がいて、そいつは事あるごとに「物質的にあり得ない」と発言する。顧客の無理な要望に対して「物質的にあり得ない」、理論的にあり得ない話に「物質的にあり得ない」。これはなかなか面白い話で、要は『物質』でない思考だとか思想だとか混み行った他人の感情だとかそういったものが後輩は理解できず、どんなものでも『行動』という物質在りきなものに変換して考えてしまうという彼の思考力の低さを象徴する口癖であるのだ。