縦裂FNO

俺はポエマー、すべてイカサマ。

創作 『円』

 音は響くことを辞めてしまったのか、その静寂は、気圧変化で耳が詰まったときのそれに近い。聞こえるのは、微かな息遣い、靴底が砂利を転がす音。前後の記憶は無い。僕の主観が最初の景色を捉える。眼前に広がるのは、廃墟寸前の古い建物、長く続く螺旋階段。

「あと少しだから」

 僕は彼女の後に続いて、砂でざらつく螺旋階段をゆっくりと登り続ける。辺りには濃い霧がかかっており、視界はすこぶる悪い。延々と続く同じ景色に時間の感覚は崩れ、脳は思考することを停止している。草木に覆われた立ち入り禁止の看板を超えてゆくような、そんな漠然とした不安だけが執拗にまとわりつき、薄く見開かれた目は録画ボタンの押されていないビデオカメラのように、ただただ流れるままに景色を映し出す。それでも僕の体は誰の命令ともなく、また一歩、また一歩と休むことなく歩を進めていた。それは諦めにも似た無心と言うべきだろうか。

 ふと彼女が振り、僕の目を見る。長く続いていた階段はあと数段で終わろうとしていた。ようやく屋上に着いたのだ。少し冷えた風は霧を押し流すようにして吹き付けているが、その速度はゆっくりで、なお且つ強い圧力を備えているようだった。その風は少し開いた僕の口へ流れ込み、喉を通り抜け、体の内部から手足の指先までを満たし、視界を通じて全身をこの世界に同調させてゆく。

 辺りを見回すと、古めかしさはより一層目についた。ポリエステル樹脂製の巨大な貯水タンクは、まだ中に水が入っているせいか、所々黒くカビのようなものが根を張り、屋上を囲う鉄製のフェンスは酷く錆付き、そこに塗られていたのであろう白い塗料の大部分はぼろぼろに剥げ落ちている。僕はまだはっきりとしない澱んだ頭で、のろのろとフェンスの側まで歩き遠くを眺めたが、たちこめる霧のせいで辺りの様子は定かではなく、どうもこの場所以外に建物は無いということしかわからなかった。風の強弱に合わせ、ひゅーひゅーと管の中を空気が流れるような音が耳につく。

「金縛りにあったことはある?」

彼女は僕の隣まで歩み寄りそう訊いた。

「あるよ。」

「どんな感じだった?誰かの気配を感じたりした?」

「まず、ブーンとした耳鳴りが聞こえる。そのときに『あっ!いけない!』と思うんだけど、もうその時は遅いんだ。既に体は動かなくなっていて、誰かが体の上に乗っているような気がする…いや、誰か、ではないかもしれない。<何か>というほうが正しいのかな。<何か>が居るんだ。その存在は確かに感じるけど、何かが僕の上でうごめいているように見えるだけで、姿、形ははっきりしない。それが本当に怖くて….僕は意識だけで必死に抵抗するんだ。」

「あなたはそれが見えているの?」

「そう言われると、何とも言えないかな…。目は閉じられたままのことが多いみたいだし、見ているのではなく、そう感じているだけなのかもしれない。稀に目が開いたまま金縛りにあうこともあるけど、その感覚が現実のはっきりしたものかという断定はできない。」

「これはわたしの予想なんだけど、あなたが金縛りにあっている時に見ているもの、それは全部夢というか、脳の中で再現されたあなたの視界みたいなものなんじゃないかな。要するにあなたが見ているものは抽象化されたあなたの部屋のイメージだったり幽霊のイメージだったり。たぶんあなたが金縛りの時に見ているものはそれ。あなたもさっき言った通り、金縛りって多くの場合、眼は閉じられているらしいから。 例えば、家具の配置や本の並びなんかは思いだせなくても、入ったことのある部屋の様子は思い浮かべられるでしょう?」

「なるほど。抽象化されるとはそういうことか。それなら、僕の記憶なんて全て抽象化された映像みたいなものだよ。数秒、数分前のことを思いだす事はできるけれど、1から100まで完璧に、細部に渡って思いだす事はできないしさ。」

「まぁ人の記憶なんてそんなものよ。『見たもの』そのイメージをある程度簡略化して記憶することで脳への負担を減らしてさ、毎日いろんなものを見て生活しているわけだし、いちいち全部覚えていたら脳がパンクしちゃうでしょ。」

「確かにね、それは一理ある…。じゃあさっき僕が言った<何か>の存在はなに?」

「それは金縛りというものに対する恐怖心だったり、体が抱えているストレスだったり、捉えどころのない不安みたいなものが具現化されたようなものじゃない?そういった要素は個人によるところが大きそうだから断定はできないけど。」

    それだけ言い終えると、彼女はくるりと向きを変え屋上の真ん中へ歩き出す。その足取りは歩くというより、跳ねているようだ。とてもしなやかで、その様子は『歩く』という行為に対して有り余った力が自然と彼女を跳ねさせている、そんな具合だ。

「記憶って花みたいだよね。水をあげたら咲いてさ、少し枯れてもそれでまた生き返る。」

 そう言って彼女は笑う。その無邪気な笑い声は、固く捻じり閉じられた蕾が音を立てて花開くように冷たく張りつめた静寂を切り崩し、歯切れよく大気の中へ霧散してゆく。

 ふと気がつくと、僕は襖で仕切られた暗く湿っぽい部屋で仰向けに倒れていた。閉じられたカーテンの隙間から漏れる光は、当てもなく浮遊する埃を優しく輝かせている。僕は体を起こし、目を凝らして部屋の中を見回した。畳の床、閉じられた襖、天井から見降ろす古めかしい遺影、仏壇。人の気配は無いが、まだ火がつけられたばかりの線香が鼻につく芳香を散らしている。さっきまで誰か居たのだろうか。部屋は物音ひとつなく、静寂は仏壇の存在を増幅させ、この場所をどことなく神秘的なものに感じさせていた。僕は立ち上がり、閉め切られていたカーテンを素早く開けると、日光が明々と部屋を照らしだす。うすうす感づいてはいたが、明るみに晒された室内を見てやはりここは見覚えのある場所だと確信した。僕は再び床に座り込むと、絶えず押し寄せる懐かしさを元に深く記憶を辿る。神経を研ぎ澄まし、様々な古い記憶を掘り返してみた。だが、出てくるのはこの場所とは関係の無さそうな記憶ばかり。僕は諦め、この場所に閉じこもっている理由もないと思い部屋を出るため襖を開けた。そして、それが決定的だった、目に入ってきた情景は全てを喚起し、全てを生き返らせた。視界に飛び込んできたのは大きなベッド、ゼンマイ式のオルゴールがついた古い電話、和室に似つかわしくないモナリザの絵画、ここは僕が幼い頃に住んでいた祖父母の家だ。そしてこの部屋は祖父の寝室で、仏壇のある部屋が祖母の寝室だろう。込み上げてくる懐かしさ次第に消え去り、それは古いものを眺めたり、触れたときに感じる、積み重なった時間がその物体や空間に染み付き醸し出す重たげな気持ちに変化していった。ただ時間の経過など感じられるはずはなかった、なぜならここは何年も前に取り壊されているのだから。

 僕は祖父の寝室へ足を踏み入れ、ふと窓の外を見る。すると向かいの道路の少し離れたところに無表情で佇む6,7才くらいの幼い少年がいる。直立不動でどこか悲しげに俯いていたが、その目はしっかりと僕を睨みつけていた。

 次に目が覚めたとき、僕は広い公園の真ん中に立ち呆けていた。ここもどこか見覚えのある場所で、恐らく先ほどの祖父母の家からそう遠くないところにある公園だろう。夕暮れ時なのか、辺りは薄くオレンジ色に染まっており、人ひとり居なければ物音ひとつなく、完全な沈黙に支配されている。そしてそれに抗うように、心臓の音がそっと体の中から浮き出てくるように聞こえてくる。僕は木製の古いベンチに腰を掛けると、何をするでもなく、ただ目の前にある路地を眺め続けた。誰かが通る気がしたのだ。いや、正確に言うならば、それを待たなければならない気がしたのだ。

 時間は刻々と過ぎてゆく。しかし暗闇が訪れる気配はなく、夕日は不気味に遊具を照らしている。落ちる影は完全な無を体現するかのような深淵で、どこか粘り気を含むように黒々としていた。ブランコはまるで固定されているかのようにピタリと止まり、ジャングルジムは酷く錆付き、砂場は寂しげに放置されている。

『風がないからこうも静かなんだ。』

 まるで人々から忘れ去られたかのような公園、微動だにしない世界、絵の中の世界へ飛び込んだようだ。過ぎゆく時間に比例して静寂は増してゆく。これは本当に静寂なのか、僕の耳が聞こえなくなってしまっただけなのではないのか、そんな気さえしてくる。静寂の限界、耐えかねた僕は叫び出したい衝動に駆られる。人が踏み込むべきではない種の静寂、"ここにいるべきではない"と無言のうちに伝える静寂、心臓の鼓動その合間を引き延ばしてゆく静寂。深刻さは増し、色彩は失われ、世界の上下は入れ換わり、激しく回り始める。これは本当に静寂なのか、単なる孤独なのではないのか、いや、孤独だからこその静寂なのか、いずれにせよ己の中にあるものが煩すぎる!!

 霞み、揺れ動く視界の中、振り子がすっと動くようにそれは表れた。老人が子供を背負って歩いてくる。僕はなんとか立ち上がり、ゆっくりと一歩一歩確かめるようにして彼らに歩み寄る。だが老人は僕に対して見向きもせず、水平線を眺めるようにその視線を遠くに漂わせていた。眉間を流れる汗は純真さの証明のようで、眠り重たくなった子供を抱え弾む息には迷いが無かった。

 もちろん僕にはわかる。その老人は在りし日の祖父で、その小さくも安寧に満ちた背中ですやすやと眠る子供、それは紛れもなく幼き日の自分自身。

 涙が頬を伝う。泣くということがこんなにも強い感情を伴うのか、僕はそんなことすらも忘れていたのか。涙は、不条理、不安、後悔、様々な感情が飽和して体から押し出されるように溢れだす。照りつけていた夕日は波が引くように夜空へと還り、涙は僕を飲みこんでゆく。

『一人は寂しい。』

 あの日の僕は祖父母の家の前で立ち尽くしている。憎しみに満ちた、今にも泣き出しそうな顔で、意識だけの存在である僕を睨む。『そんな顔で、そんな目で見ないでくれよ、君はなにもわかっちゃいないよ、これは君の『末来』じゃないか、もういい加減同じものを見ようぜ、ここから先は任せてくれよ。』

 彼女は屋上の中心にある古いベンチに腰掛け、大きなあくびをするとその腕で顔を拭った。そしてあくびを引きずったかのような、どこか間抜けな調子で語りだす。

「泣くって行為はさ、やっぱ大ごとなんだよね、ただ涙が流れるだけなのに、それが自分自身の制御下にないんだから。」

「うん。」

「感情が込み上げるだけで制御できないものがある。」

「うん…。」

 辺りは真っ暗だ、出入り口の扉だけが赤い照明に照らし出されている。錆付いたノブがゆっくりと回り、ドアは開く。しかしここへは誰も入っては来ない。ただ微かな風と、線香の匂いだけが舞い込んできた。さよならは何のためにあるのだろう、なぜさよならを言わなければならないのだろう、また会えると思いたいから?もう会えないかもしれないから?言葉だけでも、上っ面だけでも同調したいから?

「過去にさよなら。」

「過去が今にさよなら。」

 もうこれで抽象的なものは何もない、ひとつとして記号などではない、全ては一致を見る。