縦裂FNO

俺はポエマー、すべてイカサマ。

意識の網、過去の堆積

 

暖かな季節が近づくにつれ、日々の眠りは浅くなる。まるで意識がベッドに強く根を張っているようである。布団のぬくもりが徐々に体温を追い越し、やがて不快な感覚に変わる。今年は暖冬の影響もあり、いつにもましてその傾向が早く表れているような気もするが、毎年、春を前にすると体が季節の変化に追い付かず、入眠に至るまでの時間が増えてゆく。だからといって何か別のこと、例えば読書や映画を観るような気力は無く、軽い痺れのような疲労感が行動のすべてを断絶している。

だから僕はただベッドに横たわり、目を閉じたまま遠い昔のことを思い出す。もう何千回、何万回と繰り返しなぞった記憶を飽きもせず反芻する。そうしているうち、この決して劣化しないマスターテープのような記憶も末端からさらさらと溶け出し、いつの間にか生成されている夢の中での現在の自分が第三者として、過去存在していた自分自身を、ゆらりゆらりと朝まで運んでゆくのである。

 

なぜ人は暗闇では昔のことを考えるのだろう。暗闇は都合よく人に付け込んで時間を逆行させる力がある。暗闇は現在と過去という、相対する二つの次元に対して俯瞰的な立場となり、その変容を押し付けてくる。お前はどう変わった?これからはどうだ?幼き日の僕は最も低い位置に存在する地層の中に居て、そこから現在までの情けない積み上げのせいで今自分はさらに過去へと固執してしまう。

 そのようにして僕が噛り付き、貪っている「過去」という存在ではあるが、それ自体に支配されてゆく感覚とは、明瞭な意識を持つ白日の中では実に不快なものである。膨大に増え続けるそれは手足から腐ってゆく死体のように自我の中心に向かってゆっくりと浸食してくるのだ。刻々と消費される未来は変容する余地を奪われ、滞留する自我は徐々に逃げ場を失ってゆく。若さを失いつつある今は、そんな気がしている。だからこそ僕がこのブログで一貫して向き合うのは過去との向き合い方なのであり、その処遇についてなんらかの気付きを得ること。でなければ「昔はよかった」という錆び切った言葉が僕の喉をすっかり擦り切らせてしまうだろう。

 

映画や小説から「過去」との向き合い方に関する事例を考察してみる。『キリング・フィールド』という1970年代のカンボジア内戦期を舞台にした映画とジョージ・オーウェルディストピア小説1984年』を例に挙げたい。どちらも革命が起きた後の世界を生きる人々の話であり、そこでは「過去」と「現在」の比較を許されないのである。

 『キリング・フィールド』では、クメール・ルージュたちが革命活動としてインテリの大人たちを殺戮してゆく過程の中で、子供たちは「過去の記憶に支配されていない存在」として重宝され、徐々に支配的立場へと変わってゆく。つまり革命の後では「過去」など必要ないのである。むしろこうした世界の中では比較対象が存在することは毒でしかない。「昔はよかった」などと決して口走ることのない子供たちは、今と未来だけを見通すことができ、そして彼、彼女らは変容する余地に溢れ、如何様にもなれるのだ。それはたとえこの世界そのものに「変容」する余地が無かったとしても、である。

 『1984年』ではまた異なるアプローチがとられている。この作品では、すべての過去は今よりずっと悪いもの、つまり過去はいつだって地獄のような世界であったかのように改ざんされている。要は過去すらも書き換えによって支配可能なものとして描かれるのだ。そうすることで人々の過去はすべて悪い方向へと書き換えられ、「今が最高だ、でもこれからはもっと最高だ」と妄信的に思い込むのである(ただしそれは『二重思考』的に言えば、実際の経験から過去の世界がどうであったかを理解しつつも、改ざんされた過去に対してそれが事実であったかのように思い込むことに成功しているのだ)。

 どちらの作品にも共通しているのは、常に「過去」を邪悪なものとしている点である。革命が起きた後の世界の中では「過去」はあまり好まれないのである。昔を懐かしむ暇があるなら今と未来のために努力すべきだという思考は理解できるが、結局のところ、それがディストピア的世界観に落とし込まれている現実を鑑みれば、それは良いものではないのだろう。よって過去は肯定するものであるというのが、人々が本能的に感じる「正解」に近いのかもしれない。

 

それは現在の世の中を見ても、あながち間違いではないように思われる。世界は僕自身と同様に過去に支配されているのではないだろうか。過去を美しいものとして固執するのは日本人特有のものだと言う人も居るが、決してそうではない。マーク・フィッシャーの著書『わが人生の幽霊たち』ではこの過去に囚われすぎている現状は世界的な流れなのだと述べられている。それはファッションにしろ、音楽にしろ、ゲームにしろ、「レトロ」であるものに対して人々は熱狂している現状がある。若者にとってはそれが未体験の新しい感覚なのであると主張する者もいるが、実態としてコンテンツそれは自体は過去の使いまわしに過ぎず、なにか新しい要素を生み出しているわけではないのだ。この支配的であるメランコリックな空気は後期資本主義に於ける、もう何も新しいものを生み出す余地のない世界(テクノロジーを除いて)特有のものなのである。寧ろテクノロジーは時間軸という境界線を曖昧なものとして、我々から緩やかに未来を奪いつつあるとも言える。

 

話を自分自身に戻せば、僕はこれから過去との向き合い方に対して何かを大きく変えるつもりはないが、意識の持ち方として過去は美化されがちなことに留意しながら未来の消費速度を少しでもゆっくりとしたものに変えて(過去の増加スピードを減らす)ゆきたいという考えがある。それは自分が大人になったことを理解した上で、感情だけで行動し、ものを言える時代の終焉させるためのものでもある。消費社会に於ける時間軸の消失は、個人のレベルにまではまだ落ち込んできてはいないなずなのである。