縦裂FNO

俺はポエマー、すべてイカサマ。

犬/蟹/服/猿/露/

犬が死んだ

近所の犬が死んだ。可愛がっていたわけでもないので特段悲しくはない。ただ、放置された犬小屋を見るたびに犬は死んでもうこの世にいないのだということを思い出すから嫌なのだ。

その犬は1年ほど前から目の周りが黒ずみ出したり、明らかに元気が無くなったりしていたけれど、最近はまた元気を取り戻して喧しく吠えたりしていたので『もう歳なのかな、もうすぐ死ぬのかな』という考えがだんだん打ち消されてきた矢先だった。

いま、主のいない犬小屋には食べ残しのドッグフードの袋がぎっちりと詰め込まれている。そのせいで『不在』という実態のない概念がいつまでもそこに居座っている。

 

Landscape with crab

会社の人に貰ったどこかのお土産、蟹のスナック菓子。外箱は蟹がドーンとプリントされたパッケージ。自分は蟹が嫌いなので毎日このパッケージにさいなまされている。蟹というのはとても滑稽な見た目をしていると思う。メカニカルに折れ曲がる長い脚、小さすぎる胴体、マヌケに飛び出した眼球、ゆっくりとした動きの割には攻撃的な態度、そんな柔らかさのかけらも無い生き物。僕は部屋の片隅にある、この滑稽な生き物がプリントされたお土産の箱を見るたびになんとも言えぬ脱力感に襲われる。シリアスな思考も、堅苦しい小説も、クラシカルな映画もこの蟹のせいで全て台無し。中身を食べずにゴミ箱に投げ捨てたい。

 

服を捨てる

モノに囲まれた生活が好きというのは本当で、別に部屋が片付かない理由ではない。それでも狭い家の中では物理的に限界があるので、しょうがなく片付けをすることにした。片付けの基本、使用頻度の低いものは見えないところに隠す、つまりガラクタの行き先はベッドの下である。そこには収納ケースがあり、その中には服がある。結果、服を捨てることにした。

日曜の昼からベッドの下にある衣類を引っ張り出してゆく。すると出てくるのは8年~12年前の、中高生の時に着ていた服たち。当然ずっと陽の光を浴びていなかったわけでカビ臭いしジメッとしているが、服を取り出すたびに「こんな服あったな」という懐かしさが押し寄せてくる。不思議なもので、ほとんどの服に対して所有してたことをちゃんと覚えているし、中には大事にしすぎた結果あまり着ていない服すらもあった。印象的だったのは当時好きだったバンドのツアーTシャツが出てきたことで、背面には『'08 tour』や『'07 tour』とのプリントがあり、当時の思い出がどっと蘇りしばらく動くことができなかった。ただ今更取っておきたいと思ったところでどこにもスペースはないので、僕は苦痛に耐える修行僧のような心持ちで衣類をゴミ袋に詰め続けた。

服はいろいろな場面でいろいろな感情を纏わせてくれる。だから服を捨てるということはその時の感情も捨てるような気分になって辛い。こうして服を取っておいたからこそ思い出すことができた記憶もあるのだ。僕は心の中であばよ!とか、ありがとう!とか言いながら服と記憶に別れを告げた。

 

笑い猿

そもそも自分は笑いのツボが狭いのであまり爆笑しないということもあるけど、最後に爆笑した日や出来事を思い出せない。しかし考えてみると、僕は笑いというものを他人と共有するのが好きではない。集団の中にいる際、皆が笑っていると笑う気が失せる。なぜなら笑いは同調圧力のようなもので、瞬間的に沸き起こるあのモワッとした空気が気持ち悪いし、しらけた人間すらその空気に巻き込むからだ。いい大人が赤ちゃんのように手を叩きケラケラ笑っている様は非常に滑稽。だから忘年会は地獄、皆タンバリンを叩く猿のおもちゃに成り果てる。一人でニタニタ笑っているのも気持ち悪いが。

 

露天風呂

先日久しぶりに露天風呂に入った。ただめちゃくちゃに寒かったので、お湯に浸かるまで全裸で移動する時間は死ぬかと思った。

そして強い雨が降っていたので、目を開けることができなかった。空を見上げると目に水が入ってくる。ただ、外で裸になるのは案外気持ちが良い。