縦裂FNO

俺はポエマー、すべてイカサマ。

ソドムとゴモラ

雨が降ってきたな、そう思って傘を開く、耳にはイヤホン。

車のヘッドライトは少しだけ大げさに雨を照らす傾向がある。実際はそんなに降っていないのに、その灯りは降りしきる雨を直線的に、地面に刺さるように直進しているように見せかける。鋭利ですらある。

音楽を聴いていれば雨が傘を叩く音など聞こえない。バラバラバラバラと鳴るあの音はやっぱり好きにはなれない。だから音楽を聴いているというのに、帰りついた頃にはいつも以上にびしょ濡れになっている。「濡れるからきをつけろよ」という警告音みたいなものなのだろうか、バラバラ鳴るあの音は。音楽と傘の角度の関係性....。

「雨が降り始めたときっていい匂いするよね」このセリフはきっと複数人から、複数回聞いた。果たして本当にそうだろうか?埃の匂いなのに?雨で地面が冷えるとなぜか立ちこめる土埃の匂い。埃っぽくない場所で埃の匂いがするといい匂いだなって思うのだろうか。

コンビニ袋を傘の柄にかける。両手を塞ぎたくないからそうしているのだけどやっぱり重いからって途中でそれをやめる。濡れること以上に手が塞がるというのはかなりのストレスになる。

鳥の鳴き声が聞こえると、雨がやんだのかと思ってしまう。それで窓を開けても、だいたいは変わらず降り続けている。

ブライアン・イーノを聴きながらだと雨音も穏やかなものになる、そう聞いたことがある。これが環境音楽の効用だと、平穏が訪れる音だと。それは本当か、無感情とセンチメンタリズムのギリギリのラインを攻める音がブライアン・イーノ。彼の音楽はビートが無いから自然の音に溶け込む。溶け込むけれど、感情はやっぱり聴いていないときとは違う。言いたいことはわからない。

創作「夕暮れと焼き肉」

「ゴミ、出してきて。空き缶。」

「え?空き缶の回収は昨日だったんだけど。」

「ええ?ならそこいらのテキトーなとこに捨ててきて。自販機の横にあるゴミ箱とかにさ。」

「やだよ….。」

「ああ?いいじゃんよ別に、そうしなきゃ片付かないんだって部屋が。」

「あー、はいはい。わかりました。」

ぼくはトートバッグに空き缶を詰め込み、素足にサンダルをひっかけると鍵も閉めず家を出た。

夕暮だ、暗闇が敷かれてゆくように、夕日が手を引かれて消えてゆくように、辺りは音もたてずに暗くなる。いや、さっき夕焼け小焼けが流れていたっけ。今日が終わる。月曜日が迫る。つまりまた明日から学校というわけ。姉ちゃんは明日有給を使って仕事を休むと言っていた。ズルイ。

空き缶をガツガツとゴミ箱へ放りこむ。パンパンに膨らんでいたトートバッグはぺしゃんこになった。

「ジュースが飲みたいな。」

今空き缶を捨てたというのに缶ジュースを買おうとしている。やめておこう、怒られる。

風が生ぬるい、心地よい、予想通りだ。きっとそうだと思っていた、外はきっと心地よいって。月曜日からの1週間を耐え抜く力を蓄えるためにも、日曜は極力家でじっとしていることが多いけれど、日が暮れるまでベッドやソファの上でだらだらとしているというのも、それはそれで虚しい気分になる。だから姉ちゃんに空き缶捨ててこいと言われたときは散歩の良い口実ができたな、と思った。口では「えーっ」て言っていたけど。

気付くと10分くらいは歩いていただろうか。何を考えていたんだっけ、あ、そうかハルカに彼氏ができたってこと考えていたんだ、つれぇなぁ、あんな可愛い子がガラの悪い筋肉バカの野球部野郎と付き合うとは。絶対あとで後悔するだろ、汚点だよ汚点、人生の汚点!女の子なんてみんな文系の地味な男と付き合ってりゃいいんだよチクショウ。運動ばかりしている人間は何を見るってんだ、何を感じるってんだ、何に気付くってんだ。あいつらいつも同じものしか見てないじゃないか。帰宅部を舐めないで欲しい、有り余る膨大な時間を思索に費やしているんだ、過去も今も未来も全部1歩上から見ているんだ、見ようとしているんだ、1本道をどれだけ早く走りぬけられるかしか考えていないあいつらとは違ってぼくは森を抜けなければならないんだ。

イライラにはカルシウムがいいんだっけ、ぼくは行き着いたコンビニで250ccパックの牛乳を買うと店を出て駐車場の脇に腰を下ろす。ストローを抜き出し、パックに差し込む。しかしストローがいまいち伸び切っていない気がした、沈み込みすぎている。ぼくはもう一度ストローを抜き出すと、先端を口に咥え反対側を手で摘みグググと強く引っ張り、再度パックに差し込む。「あんまり変わんねぇや。」

子供2人が目の前を、大きな声で笑いながら通り過ぎてゆく。日は完全に沈んでしまった。街灯が冴えない光を気だるく散らす。牛乳は1分で飲み終わった。あ、母ちゃんからメールだ。「今夜は焼き肉です。」

牛乳飲んで焼き肉食べるのか、牛ばっかだな、牛。帰るか。

虫が鳴いている、空は夜でも晴れている、帰らなきゃ、明日って月曜だっけ、寝たくねぇなぁ、やだなぁ、焼き肉、はやく食べてぇなぁ。

怒りはぶつける為にある

前回に引き続きまた音の話である。

 

 これは僕が横浜のアパートで一人暮らしをしていたときの事だ。有り余る時間に束縛の無い部屋、その頃の僕は「夜に遊んで朝に寝る」という大学生の義務を抜かりなくこなしていた。そんな日々の、ある日の朝。本日も任務完了だと意気揚々と布団に潜りこむ朝7時だったが、その僅か1時間後に壁を破壊するかのような打撃音によって飛び起きる。そしてワケもわからぬまま耳をつんざくチェーンソーのような音にしばらく茫然とするのだった。ハッとした僕はなんだなんだなにごとだと玄関を飛び出すと、即座に視界に広がる無垢な景色と熟練風味な作業員の存在によって隣の部屋がリフォーム作業中なのだと知った。

 勘弁しろよ、僕はこれから寝るんだよ、この生活サイクルは大学生の務めだろう、義務だろう、それもわかっちゃいないのか。僕は母に電話する。こういうときは母に電話と相場が決まっているのだ。特に男は。

 あ、もしもし母さん?あのさ、隣の部屋がリフォーム工事でうるさいんだよ。朝8時から騒音撒き散らしてさ、ん?それくらい我慢しろ?あんたが入居する前もそうやってリフォーム入って誰かに迷惑かけたって?いやいや、それとこれとは別ですよ。だってこんな早朝からガチャコンガチャコンされたら大学生の義務が果たせませんって。まさか夜に寝ろって言うんですか?

 

 これは僕が実家でダラダラとした悠々自適な生活、言いかえると、大学生の義務をしっかりと果たしていた日々のとある朝のこと。「夜に遊んで朝に寝る」今日もお勤めご苦労様ですと僕は朝7時に布団に飛び込んだ。だがその1時間後、高速で回転する刃物が小石を弾き飛ばす「チュインチュイン」という音と共に甲高い2ストロークエンジンのような騒々しい音によって僕は飛び起きた。なんだなんだなにごとだと窓まで駆け寄りカーテンを開ける。すると、近所のご老人方がその折れ曲がった腰に似つかわしくない暴力的なきらめきを所持していた。草刈り機だ。草刈り機でせっせと除草作業をこなしていたのだ。しかも皆して「本当はやりたくないんだけども草が伸びては困るしなぁやれやれ」といった具合の表情をしている。

 ふざけるな、こっちは大学生のキツイノルマを日々こなしているんだぞ。こんなことで眠りを邪魔されてたまるか。僕は母に相談しようとリビングへ向かった。こういうときは母に相談するのが一番と相場が決まっているのだ。特に男は。

 あ、母さんおはよう。あのさ、隣のアパートの庭、草刈り機の音がうるさすぎて寝れないよ。苦情言った方がよくない?え?みんな老人なんだからこういう作業は朝の涼しい時間にしないときついって?いやでも僕には義務が…ん?大人になれって?ええ?

 

 隣人が大人数で騒ぐなどしてうるさければ壁を叩くなりピンポンして苦情を言うなりすれば良い。雨風がうるさければテレビに向かって罵詈雑言を浴びせればよい。でもリフォーム工事や草刈りの騒音はどうしろというのだ。仕方がない?我慢しろ?もう大人だろ?いや、それはわかる。わかっている。しかしその正論は僕の抱える怒りのやり場をどこか知らないところへ消し去ってしまうのだ。知りたくない、朝の騒音より自分の怒りの方がよっぽど理不尽なのだとは知りたくない。いや、とっくに知っていたけども、理解はしていたけども、やり場の無い怒りはどうすればいいんだ?まるでウルトラマンによって家を壊されたような気分だ。

「怪獣がいたんだ。たまたま足元に君の家があってね、仕方なかったんだ。じゃなきゃやつらを倒せないだろう?我慢してくれよな」

冬はつとめて。

 

 どうも冬になってからというもの、毎朝4時~5時の間に必ず目が覚める癖がついてしまった。この冬に限って言えばのことだが、今のところ朝まで一度も目覚めずにぐっすり眠れたという記憶がない。理由ははっきりしている。寒いからだ。

 僕は毎朝4時半ごろにいそいそと起きてはピッと暖房のスイッチを入れ、トイレへ行く。そして凍りついたように冷たい朝の空気が再び僕を布団に潜らせる。

 タイマーを設定しておけよ!そう思われるかもしれない。実際家の人にもそう言われた。だが僕の部屋の暖房は低スペックなので、タイマーは毎回設定しなければならない。それが非常にめんどくさい。起動タイマーの設定なんて1分もあれば済むことではあるが、毎晩寝る前にそんなことをするくらいなら朝寒くて目が覚めたほうがマシかなと思ってしまう。

 Twitterには何度か書いたが、冷暖房の「ゴーッ」という排気音は眠気を誘う。それはどこか街における朝の喧騒にも似ている。人や車、電車や、天気が、草や木が立てる朝の音。都会の音。僕は東京に毒されているのかもしれないが、それらの音はずっと昔から今の今まで途切れることなく連なっている日々を、営みを証明するものであり、ある意味では「自然」の一種でもあるように感じる。都会ならではのインダストリアルなサウンドも僕にとってはとてもナチュラルなものなのだ。

 確かに毎日早朝に暖房のスイッチを入れるのは面倒だし、なにより寒くて息を吸う度に肺が凍りつきそうになる。そのことが安定した眠りを阻害している。しかし、僕はきっとこの暖房の音と実際に街が動き出す音が重なって区別がつかなくなってゆく過程が好きなのだ。朝のまどろみの中ではっきりとは自覚できないが、きっとそうだ。そうして僕の意識は朝日と共に街へと歩みを進め、混ざり合い、再び眠りの世界へ引き寄せられる。アラームが鳴るまでは。

評判の弊害

 ある日、僕はふと映画が観たいと思い、某大手レンタルショップへ立ち寄った。ある程度は何が観たいか、というものが自分の中で決めてあったというか、既にイメージがあったので、棚からいくつかの映画を手に取り、パッケージや裏面をまじまじと眺めては選定に取り掛かり始めた。

 迷うこと数分、2本借りる、ということは決めていたので、候補の4作品から2つに絞ることとなった。4本全部借りればいいじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、映画は気分が乗らないと観る気がしないものだし、途中で寝てしまう可能性も考えると、週に2本の鑑賞が限界であると感じている(過去毎日1本観ていた時期もあるが…)。借りた映画を観ることなく返却するというのは、その時の「映画を観たい」という気分にお金を払っているようなものだし、買っただけで読むこと無く積んでゆく本に近い感覚がある。むしろ返却しなきゃならない点ではもっとたちの悪いものだ。300円程度だとしても、お金をそのようなことで無駄にしてはならない。

 なかなか観る映画を絞りきれない僕はスマホを取り出し、アマゾンや映画のレビューサイトを漁り始める。本当はこういうことしたくないんだけどなぁ、と考えながらも候補である作品の評判を眺める。すると、案の定というか、解りきってはいたが「気分的にはこの作品に気持ちが傾いていたけど、評判はこっちの作品のほうが良いなぁ…」という、さらに捻じれてややこしくなった状況に追い込まれた。「自分の勘vs世間の評判」というわけだ。

 「世間の評判」というのはあまり好ましいものでもない気がする。近年はボロ小屋みたいな佇まいの、入るのもはばかられるような飲食店でもネットにレビューが掲載されていたりする。つまり、実際に行かずとも「おいしい」「まずい」「サービスが悪い」「つまらない」などといった情報が事前にわかってしまい、「自分の感性」に当てはめて物事を選ぶのではなく、「世間」に合わせて物事を選んでしまっているのだ。

 お金を払う以上誰しも失敗はしたくないものだし、それを事前に防ぐというのは悪いことでもないのだが、なんでもかんでも「即効性」や「効率」を求めてしまうことにふと、何とも言えぬ嫌悪感を覚えてしまう。

 僕はとりあえず、レビューサイトで最も評判が良い作品一つと、自分の今の気分に最も即していると思われる作品を一つ選び出してレジに持っていった。要するに間をとったわけだ。

 また返す時に、今回は選ばれなかったものの、候補だった別の作品借りようとも考えたが、来週の自分がどんな気分かなど、想像もできないので、やはりまた同じように迷うのだろうし、そういう意味では一期一会的な感覚として絶対に妥協はできないのだ。

(小説)ST∃M 『これは君の日々 3』

 

1.

 とても綺麗な三日月だった。そして、とても強く輝いているせいか、「月」本来の形を示す丸い影がうっすらと浮かび上がっていた。わたしはその影をそっと、三日月の鋭利な先端を結ぶように、弧を描くように指でなぞる。けれど、できあがったその形はどこかいびつで、綺麗な円形とはならなかった。

 

2.

 乾ききった冷たい風の吹き荒れる季節だというのに、わたしはその夜心霊番組を見た。番組の中で芸能人たちは、真夜中の廃墟へ潜入し、霊の存在を証拠づけるその瞬間を捉えんとするが為に恐怖心をねじ伏せ、悲鳴を上げながら撮影に挑んでいた。そして、芸能人の主観カメラや設置された定点カメラは、誰もいないはずの部屋で不気味に響きわたる奇音や不可解な現象を映し出す。

 いつのころからか、心霊特集のテレビ番組を見たところでそれをお風呂や寝るときに思いだして恐怖に悶えるという経験はしなくなった。わたしはその日も、寝る前にベッドの中で先ほどの廃墟のことを考えた。あの暗く湿った荒れ果てた空間、勝手に開くドア、地下に溜まった水、謎のラップ音、横切る影、出所のわからない視線。さまざまな恐怖分子が廃墟を構成していた。ただ、ひとつ気になるのは、今こうしてわたしが寝ようとしているときも、あの廃墟はちゃんと存在しているのだろうか?ということ。芸能人がいなくても、カメラが無くても、誰も見ていなくても、ドアが勝手に開いたり変な音が鳴ったり物が勝手に動いたり、月明かりの下に人影が揺らめいたりするのだろうか?そんなことを考えていると、廃墟という空間の存在がとても疑わしく感じられた。

「廃墟ってさ、誰かがふとその存在を思いだしたり、その場所に行ったりしたときにだけ存在が発生したりして」

 

3.

 祖母はこの頃寝てばかりになった。今も窓際の座椅子に座り、わたしの名前を切れぎれに呟きながら、こくりこくりと眠っている。

「お母さん、おばあちゃんはどうしてこんなに寝てばかりなの?」

「おばあちゃんはね、夢を自在にコントロールできるのよ」

「夢の方が楽しいから寝てばっかりなのね」

「そう。おばあちゃんももう90歳だからね、現実がつらいのよ」

 食事中、祖母は言う。「夢はつらい」

 祖母の言う「夢」とは、どっちの世界のことを言っているのだろう。祖母にとっての現実はどちらなのだろう。

 

4.

 思いだすだけで、今この時や、未来を擦り減らしてしまうような酷い過去。思い出というフィルターをもってしても美化されない酷い過去。そんなとき、夢は時系列を乱し、混沌によって苦痛を根っこの部分から消し去ってくれる。しかし、時にはより強い印象として、心の奥底までその浸食を進めてきたりする。

「それでも、可能性や多様性という意味では現実よりマシなのさ。嫌なことがあったんだろ?早く寝ろよ」

新年のご挨拶

 

 クリスマスが終われば世間は急速に年末の空気を放ち、人々はいろいろな物事を「納め」、メディアは1年を「まとめ」始める。たしかに世間がそういう空気を醸せば僕自身、意識せずともその年を振り返って、来る新しい年に空想や期待を重ねてしまうが、時間の概念的には12月31日と1月1日は単に「今日」と「明日」、「昨日」と「今日」の関係でしかない。

 地続きの人生を、終わりのない世間を、何かの節目で区切るというのは、一体どのような意味があるのだろうか。心機一転の為だろうか、政治の為だろうか、経済の為だろうか、僕はいろいろ考えてみたが、要するにそれは「歴史」の為である気がする。

 老人は「ずっと昔のことだ」と語る。区切る必要がないからだ。時代も、年齢も、西暦も。それらすべてを含んで人生という1本道であるならば、見つめなおす過去の人生の時間軸など大した意味はない。

 初日の出が、明日の日の出より美しいわけではないのだ。

 

 ということで、ことしもよろしくお願いします。