縦裂FNO

俺はポエマー、すべてイカサマ。

小説『夕焼けは無く』1話〜6話

1.

「雨が降るかも。」

マコがそう言った数分後、その予言は見事実行に移された。眼が冴えるような11月初旬の空気、息を吸えば食道や肺がスッと冷えてどこか心地よい乾きが体を満たし、そしてそれを補うかのように雨が滴り落ちる。開け放たれた窓から風は無い、ならば窓は閉めない方が良い。室内にいながら雨宿りをしているような気分だ。

「雨が降ると、ザーって音がするじゃない?ま、今がそうなんだけど。」

マコは机に肘をつき、気だるそうに灰色の空を眺めている。

「あれって、雨が屋根や草木に当たる音なのかな。」

後ろの席に座る僕は、そうなんじゃない?と特に考えもせず反射的に答えた。教室には僕たち2人以外誰も居なかった。

「だったらさ、砂漠に雨が降ったら、どんな音がするの?なにも音がしないの?」

「そんなこと、考えたこともなかったよ。」

彼女はなにも答えない、暫しの沈黙。一秒毎にコチコチと鳴る時計の音は、僕に会話の続きを促しているかのようだった。まずったな、少しだけそう思う。

「まあ、濡れた地面に雨が落ちればボツボツと音を立てるかもしれないけど、降り始めはとても静かなんじゃないかな。僕の勝手な想像なんだけど。」

雨音は一気に強まる。しかしそれは、この雨が長続きせずに、すぐに止んでしまうものなのだと僕に予感させる。まるで夏のスコールだ。

「激しくもさらさらと降る雨…。」

彼女はそう言うと突如立ち上があった。椅子は追い出されるようにガラガラと音を立てて後退し、僕の机にぶつかる。ダンッという音がしんとした教室に響き渡った。

「それはとても、とても。」

「美しいんじゃないかな?」

肩まで伸びたマコの黒い髪がほんの少し風に揺れた。

2.

「あらあら、誰もいない教室で二人はなにをしているのかな。」

サキはにやりとした笑みを浮かべ教室の後ろに立っていた。

「あんたを待ってたんでしょーに。」

サキが合流し、教室を出た僕たち三人は職員室を目指し薄暗い廊下を歩く。マコとサキは昨晩近所で起きたコンビニ強盗の話をしている。犯人は未だ逃走中で、しかも現場は二人の家の近くということで、おいおい夜に買い物できないじゃないかと嘆いていた。僕は会話に加わることなく、彼女らの後ろを歩きながら艶のあるマコの髪や、健康的に揺れるサキのポニーテールを眺める。飽きない光景だな、と思う。それと同時に、マコの家の近くの公園を思い浮かべてしまった。緩やかな、長い坂道を登った先にある小さな公園。僕は週に一、二回、夜になるとマコと二人でそこへ行く。そしてベンチに座り木々の隙間から覗く高層ビルの夜景を見ながら喋ったり黙りこんだり、お茶を啜ったりする。サキはこのことを知っているのだろうか。

雨が降り始めて間も無いが、廊下の空気は一変していた。塗料で塗り固められ、ツルツルとしたコンクリートは素早く湿気を含み、急に陰った日差しはどこか陰鬱な薄暗さを廊下にもたらす。僕はこの空気が嫌いじゃない。人っ気の無い校舎、どんよりとした空を写す踊り場の窓、渡り廊下では水しぶきをあげて走る車の音、遠くから「さようならー」という声が聞こえる。

「用事ってなんだろうね?」

マコは少し楽しそうに、ちらりと僕の顔を覗きつつもサキに訊く。

「さぁ。廃部のお知らせとか?」

「うわ!ありえる!!」

サキがコンコンとドアをノックする。うーい、という中年男性の声が聞こえ、彼女はガチャリとドアノブを回す。

「タカハシ先生、いますかー?」

3.

「これこれ、これを渡そうと思ってな。」

職員室に着くと、顧問のタカハシ先生が僕ら三人にプリントを渡す。そこにはこう書かれていた。

『高校生環境絵画コンテスト』

「これ、2年のお前らだけで参加な。入賞よろしく。」

僕らが所属している美術部に三年生はいない。いるのは僕、マコ、サキの二年生三人と、一年生四人の計七人だ。全員が全員、真面目に取り組んでいる訳ではないが、なんとか細々と平和にやっている。実際のところ、吹奏楽部を除く文化部なんてすべてそのようなものだと思うが、特に用がなくとも毎日放課後に立ち寄ってもよいと思える場所があるのは有難かった。

部室に着くと、一年生のフミカが、「あー!先輩!先輩!」とサキに駆け寄る。もう一人の一年生コウキほ黙々と海の絵を描いていた。

「チナとユリは?」

「今日は休むそうです。」

サキが尋ねるとコウキがキャンバスから目線を逸らすことなく答える。

「そっか。」

「先輩!先輩!今日もゲームしましょうよ!Vita二台持ってきたんですよ!」

フミカははしゃぎつつもねだるようにサキにゲームを持ちかける。

「悪いねフミカ、私は今日これの題材を考えなきゃ。」

サキはヒラヒラとプリントを振りかざし、フミカにそれを見せる。彼女はプリントを受け取ると、「なんですかこれ。」と言いながらまじまじと眺めた。

「えー、つまんな。こんなのやらなきゃいけないんですか。」

「つまんなくても部活として一定の成果は出してかなきゃ部費どんどん削られるよ。」

「そもそも私たちに部費を使う権限無いんですから、削られるとかなんとか言っても何も変わらないですよ。もういいじゃないですか、アニメみたいに放課後だらだらするだけの部活で。」

「もう既にそんな状態だろ。」とコウキが口を挟むと、サキがははは、と笑った。

4.

月曜日の放課後、僕は早めに部室へ行き、土日の間に下書きをしておいた絵に取り掛かる。マコは既に部室にいて、部屋の片隅にある机で肘をつきながら本を読んでいた。

「マコ、あんまり肘をつかない方が良いよ、顔歪むよ。」

「んん?うるさいなぁ。大丈夫だって。」

それっきり会話は途切れ、僕らは黙り込む。三十秒ごとに時計の針がカタリと音を立て、その度に部屋の温度が下がってゆくようだった。


西日が強く差し込んでくる。少し空けた窓からは緩やかな風と吹奏楽部の奏でるトランペットの音が舞い込み、肌色のカーテンがふわりと揺らめく。静かで落ち着いた時間だったが、廊下のほうからは少し急ぎ足の足音、タッタッタッという足音響いてきた。「サキだな。」そう思うと案の定彼女が「やはー」と言いながら入ってくる。

「一年生は集会あるから少し遅くなるってよ。」

「オッケー。」

サキは教室に入ってくるなり足を止め、僕の絵をまじまじと眺める。

「なにそれツイッターの小鳥?」

「いや違うから。」

「じゃあなに。」

伝わらない絵の概要をいちいち説明するのも野暮な気がして僕は一瞬黙り込んでしまったが、こうも首を傾げ不思議な顔で見られたらそうはいかった。

「えっと、空に放ったはずの小鳥が落下してゆく様子。両手でそっと包んでいた小鳥を、ふわりと空に放ったら、そのまま落ちてゆく様子。」

「ええ...。」

サキはうわ、引くわぁ、と言いながら視線だけをこちらに残しマコの元に歩いて行った。

「ねぇ、マコは描く絵決まったの?」

「たった今ね。」

「えええ、どうしよ。なんで?二人とも早くない?私まだなんにも決めてないんだけど。」

サキはそう言いながらも焦る様子は無く、マコの向かいに座ると彼女を真似て肘をつき、にこにこと笑った。

日が短くなってきた、僕はそう思う。静かな部室に夕日が強烈に差し込み、部屋は溶けた鉄のように赤く染まっている。彼女ら二人の影は闇のように濃く、どこかドロリとした黒さをもって部屋を横切っていた。

5.

夕食後、自室に戻ったものの特にやることがなかったので机の上の砂時計をひっくり返し、じっと眺めた。五分間、それを最初から最後まで。よく雑貨屋などで砂時計を見かけるとついついひっくり返してしまうので、ならばいっそのことと思い、先日購入したものだ。何も考えたくないときはこれに尽きる。体感的に早くも遅くもなく、そして何より飽きない。一秒よりもさらに小さな時間たちが粒となり、積み重なり、山となり、時間というものを可視化させてくれる。時間は確かに『流れている』のだと実感できる。

何回砂時計をひっくり返しただろうか、ふと我に返ってスマートフォンの画面を見る。しかし誰からも連絡は来ていない。マコはあの公園にいるのだろうか?僕はベッドに飛び込み、少しそのことを考える。ただ思考は安定せず、物凄いスピードで展開する紙芝居のように、次々と過去や今のこと、そしてまだ訪れもしない未来のことが頭の中を駆け巡る。あーだめだ、僕はそう思い、風呂に入るため部屋を出た。

体を流したあと、再度自室に戻った僕は窓を開け夜風に当たる。室内よりも少しキンとした冷たさのある夜風が、さらさらと体を通り抜け、全身の湿気を吹き飛ばしてくれているようだった。移りゆく季節を直に体感している時、なんとなくじっとしていられなくなる。そうして僕は勢いよく窓を閉め、上着を着込んで外へ出た。

6.

コンビニでピザまんとホットのカフェオレを買い、公園へと続く坂を登りながら食べ歩く。空気はすっかり冬の様相を呈していて、夜の空にきらめく星々やビルの灯り、街灯は乾いた空気の中できりりとした輪郭を持っている。この時期になると、毎年のように、冬は長いから嫌いだと思う。しかし、そうやって繰り返す季節に終わりを感じられずとも、僕らは毎年のように歳をとって、毎年どこかで再度季節を迎える。それは気が遠くなるような繰り返しで、生命の終わりすらも凌駕し、この坂道のように長い。しかし坂道は続く、坂は長い、足が疲れた、休息はどこだ?たとえそれが叶ったとしても、休息を取るということはまた始めなければならないのか?休息とはなんだ?いつか休息は終わるのに、また一歩踏み出さなければならないのに、それを受け入れる余地はどこにある?ああ、なんだかマコに会いたい、声が聞きたい、僕が寂しいときに側にいてくれる彼女が好きだ、じゃあ彼女が寂しいときは?知らない、でもそれを悟ってみたいと思う。だから今日だってこうして夜に・・・。

「ショウちゃん!」

ポニーテールを揺らしながら彼女は走って来る。坂道を力強く蹴って、強く息を吐いて、僕の名前を叫び、僕を立ち止まらせて。

「サキ、どうしたの、こんな時間に。」

「後ろ姿が見えて、ショウちゃんだと思って。」

ゼェハァと息をしながら彼女はいつものように微笑む。

「なんだか嬉しいなぁ、こんな時間にこうしてショウちゃんに会えるの。ちょっとした買い物の帰り道とか、用もなくプラプラしているときにこうして友達に会うのって嬉しい。ショウちゃんこそ何してるの?こんなとこで。」

「いや、特に用事はないよ。たまにこうして散歩してるんだ。」

「へぇ。私はちょっと買い物しててその帰り。」

彼女は相変わらずぜぇぜぇと息をしていて苦しそうでだった。別にそこまで全速力で走る必要もないじゃないかと思ったが、そういったところがサキらしいところでもあった。彼女はちょっと待っててと言うと、坂の途中にある自動販売機でミネラルウォーターを買うと一気に半分ほど飲み干した。

「なんかさぁ、まだ私たちが小さかった頃もあったよね、ここでこうして偶然会ったの。」

「ん?そんなことあったっけ?」

「ええ?忘れたの?私たちがまだ年長さんでさぁ。」

「いやいや、幼稚園児のころなんて覚えてないよ!」

彼女は本当に記憶力が良く、ことあるごとにあの時はこうだったよね、あの時はこうしたよね、と尋ねてくる。ただ僕がそのことを覚えているかといえばそうでないことが多いのだ。

「私はお母さんと一緒に習い事から帰ってたところだったんだけど、もう夕暮れも近いっていうのにショウちゃんがこの坂道をとぼとぼ歩いてて、私が駆け寄って声を掛けたら道に迷ったって!」

彼女は嬉しそうにゲラゲラと笑う。

「ショウちゃんそれまでボーッとした顔してたのに私の顔見るなりグスグス泣きそうな目になって『ここどこ?』って言うんだもん。おかしかったなぁ。きっと私の顔見て安心したんだよ、嬉しかったんだよ!」

こうやって昔のことを話すときの彼女はいつも本当に楽しそうで、たとえ僕がそのときのことを覚えていなかったとしてもつい懐かしいような気持ちになって、一緒になって笑わずにはいられなくなる。それでも彼女は昔のことを思い出すと切なくなると言う。

「楽しい思い出ってさ、そのあと暫くはどこかふわふわしたような気持ちが続くじゃない?思い出しただけでフフって笑いそうになったり、泣きそうになったり。だってそのときの感情をそっくりそのまま簡単に取り出せるからさ。でもその感情はだんだんと薄まってしまって、ついには『楽しかった』というだけの記憶しか残らないの。家族や友達と『あの時はさー!』って話していても、その記憶にしっかりとくっついていた感情はもうパリパリと剥がれ落ちてしまっているっていうか、今となっては本当に楽しかったのか本当に悲しかったのか、それすらもあやふや。」

「一般的には、人間は昔のことを美化するもんじゃない?思い出フィルターだよ。つらい記憶さえも美化しちゃう人がいるくらい。」

「みんなそう言うけど、私はそうじゃないな。思い出は綺麗なものだって思いたいし、実際そうだったのかもしれないけど、その時は必死だったり忙しかったりで特に何とも感じられなかったのに『あの時はこうだったなぁ』ってそれを美しく思うのはなんだか変だよ。やっぱり現在進行形でいまその時が楽しく、嬉しく感じられないと。」

人は過去の出来事にすら願望を抱く。こうであったはずだという過去の出来事。しかし彼女は過去のことは悲しみの中だけにあると言う。

「だから・・・。」

彼女はそこで言葉を区切り、一息置いてから再び話し始める。

「だから私は毎日新しい思い出を求めたい。過去の感情が風化していっても、新しい感情がその虚しさを埋めてくれればいい。」

いつの間にか坂道は登り終えていた。カフェオレは飲み干し、ピザまんは食べ終え、そのゴミすらもどこかへ捨てているのだろう、僕は手に何も持っていなかった。空気は冷えて目の覚めるような鋭さも持ち始めていたが、長い坂道を登ったせいか、意識はぼんやりとして現れ、まるで夢を見ているような気分だ。ただ、そうした空気を誰かと、誰かというよりサキとこうして共有できるのはなんだか嬉しかった。もう少しここでこうしていたいような気もする。目の前には高層ビルの灯す航空障害灯の赤い点滅が無数に見えてきた。公園はもう近い。

「なぁサキ、ここからちょっと歩いたところに夜景の綺麗な公園があるんだよ、今から見に行こう。」

「うんうん、そうしよう!」

 

感情と出来事を埋める言葉

人は喜びや悲しみを感じる時、それをいちいち「言葉」として捉えるだろうか、感情の様々な構成要素をいちいち言葉として捉えるだろうか。

自分が「嬉しい」「楽しい」「悲しい」と感じているとき、なぜ自分がそう感じているのかを根掘り葉掘り事細かに言葉として書き起こしてゆくと、結局は時間を遥か過去にまで遡る羽目となり、生命の根源的要素はおろか、宇宙の起源にまで到達してしまう。例えば、自分が生まれなければその感情が生じる事も無かった訳であるし、それは両親の恋愛や結婚に関わり、そのまた上の世代、知り合うきっかけ、法制度、etc....そして最終的に「ビッグバンによってこの世が誕生したからです」にまで至る。

ただこれはやや不可逆的に思える。要は出来上がった料理はもう食材には戻らないということだ。「今ぼくが嬉しいのは150億年前にビッグバンが起きたことに由来します。」などと言っては物事の前後関係無視も甚だしいし、なにより飛躍しすぎている。生れてこのかた人生に訪れた様々な選択、全身に張り巡らされた神経のように枝分かれしてきたその選択は絶対に辿れない。そんなことをしていたら「タラレバ」は天文学的数値に膨れ上がり、もはや自分の原型など留めることはできないだろう。捨て去っていった可能性にいちいち理由をつけていては年老いて死んでしまうのだ。過去を起点として今へ向かうその全ては語れない。

ぼくはこの点に言葉の限界を感じる。つまり言葉によって感情の「繋がり」を辿ることはできるが、捨て去った選択肢や可能性は語れない。「今の出来事」と「過去の出来事」、「今の気持ち」と「むかしの気持ち」その間には語りきれない何かがある。実は語ることができるのかもしれないが、そんなことをしていては人生が終わる。感情と出来事の間には一体何があるのか、それはわからない。結局は見たもの聞いたものが全てなのかもしれない。だから、今ぼくたちが「嬉しい」とか「悲しい」とか、そんなことを感じているのは「嬉しい」からであり「悲しい」からだ。説明すべきことなどない。

 

声は顔の一部などではない。

 東京の杉並区にあるとある駅、僕は改札前で友人を待っていた。日頃から電車を利用する人にはわかると思うが、通常駅の改札前は目の不自由な人の為に「ピーーーン、ポーーーーン」という誘導音が鳴っている。

 だが、聞こえてくるのはそれだけではない。人待ちで手持無沙汰な僕は喧騒を掻き分けある一つの音に辿りつく。

「ここはJR線、東西線改札口です。」

間髪置くことなく次の声も聞こえてくる。

「ここはJR線、東西線改札口です。」

「ここはJR線、東西線改札口です。」

 これも目の不自由な人の為の音声案内なのだが、特筆すべきは声のパターンが複数存在しているということだ。全員男の声ではあるが、おそらく十数人分のパターンが存在しており、毎回別人が喋っているのである。確かに聞いていて飽きはしないが、なぜこのようなことをしているのかは不明...(暇なのだろうか…)。

 定刻になっても友人は表れないので、僕は暇つぶしにこの音声の「切れ目」を探す事にした、どこかのポイントでループしているはずなのだ。

 僕は数分間その声に耳を澄ます。だがこれが全く分からない。全ての声が「さっき聞いたような気がする…」といった状態でさっぱり区別できないのだ。このことによってつくづく人間の音声認識能力は低いものなのだと痛感した(僕の音声認識力が低いだけかもしれないが)。まぁ考えてみれば顔だって覚えるのに苦労するのだから声が覚えられないのは当然なのかもしれない。例え自分の親でも電話口で違う苗字を名乗れば別人だとしか思わないのではないか。

だがその数時間後に僕は気付く。

「歌手の声は一発でわかる」

顔でなく声で認識してもらう世界、やはりその個性は凄いのだと痛感した。

創作 『円』

 音は響くことを辞めてしまったのか、その静寂は、気圧変化で耳が詰まったときのそれに近い。聞こえるのは、微かな息遣い、靴底が砂利を転がす音。前後の記憶は無い。僕の主観が最初の景色を捉える。眼前に広がるのは、廃墟寸前の古い建物、長く続く螺旋階段。

「あと少しだから」

 僕は彼女の後に続いて、砂でざらつく螺旋階段をゆっくりと登り続ける。辺りには濃い霧がかかっており、視界はすこぶる悪い。延々と続く同じ景色に時間の感覚は崩れ、脳は思考することを停止している。草木に覆われた立ち入り禁止の看板を超えてゆくような、そんな漠然とした不安だけが執拗にまとわりつき、薄く見開かれた目は録画ボタンの押されていないビデオカメラのように、ただただ流れるままに景色を映し出す。それでも僕の体は誰の命令ともなく、また一歩、また一歩と休むことなく歩を進めていた。それは諦めにも似た無心と言うべきだろうか。

 ふと彼女が振り、僕の目を見る。長く続いていた階段はあと数段で終わろうとしていた。ようやく屋上に着いたのだ。少し冷えた風は霧を押し流すようにして吹き付けているが、その速度はゆっくりで、なお且つ強い圧力を備えているようだった。その風は少し開いた僕の口へ流れ込み、喉を通り抜け、体の内部から手足の指先までを満たし、視界を通じて全身をこの世界に同調させてゆく。

 辺りを見回すと、古めかしさはより一層目についた。ポリエステル樹脂製の巨大な貯水タンクは、まだ中に水が入っているせいか、所々黒くカビのようなものが根を張り、屋上を囲う鉄製のフェンスは酷く錆付き、そこに塗られていたのであろう白い塗料の大部分はぼろぼろに剥げ落ちている。僕はまだはっきりとしない澱んだ頭で、のろのろとフェンスの側まで歩き遠くを眺めたが、たちこめる霧のせいで辺りの様子は定かではなく、どうもこの場所以外に建物は無いということしかわからなかった。風の強弱に合わせ、ひゅーひゅーと管の中を空気が流れるような音が耳につく。

「金縛りにあったことはある?」

彼女は僕の隣まで歩み寄りそう訊いた。

「あるよ。」

「どんな感じだった?誰かの気配を感じたりした?」

「まず、ブーンとした耳鳴りが聞こえる。そのときに『あっ!いけない!』と思うんだけど、もうその時は遅いんだ。既に体は動かなくなっていて、誰かが体の上に乗っているような気がする…いや、誰か、ではないかもしれない。<何か>というほうが正しいのかな。<何か>が居るんだ。その存在は確かに感じるけど、何かが僕の上でうごめいているように見えるだけで、姿、形ははっきりしない。それが本当に怖くて….僕は意識だけで必死に抵抗するんだ。」

「あなたはそれが見えているの?」

「そう言われると、何とも言えないかな…。目は閉じられたままのことが多いみたいだし、見ているのではなく、そう感じているだけなのかもしれない。稀に目が開いたまま金縛りにあうこともあるけど、その感覚が現実のはっきりしたものかという断定はできない。」

「これはわたしの予想なんだけど、あなたが金縛りにあっている時に見ているもの、それは全部夢というか、脳の中で再現されたあなたの視界みたいなものなんじゃないかな。要するにあなたが見ているものは抽象化されたあなたの部屋のイメージだったり幽霊のイメージだったり。たぶんあなたが金縛りの時に見ているものはそれ。あなたもさっき言った通り、金縛りって多くの場合、眼は閉じられているらしいから。 例えば、家具の配置や本の並びなんかは思いだせなくても、入ったことのある部屋の様子は思い浮かべられるでしょう?」

「なるほど。抽象化されるとはそういうことか。それなら、僕の記憶なんて全て抽象化された映像みたいなものだよ。数秒、数分前のことを思いだす事はできるけれど、1から100まで完璧に、細部に渡って思いだす事はできないしさ。」

「まぁ人の記憶なんてそんなものよ。『見たもの』そのイメージをある程度簡略化して記憶することで脳への負担を減らしてさ、毎日いろんなものを見て生活しているわけだし、いちいち全部覚えていたら脳がパンクしちゃうでしょ。」

「確かにね、それは一理ある…。じゃあさっき僕が言った<何か>の存在はなに?」

「それは金縛りというものに対する恐怖心だったり、体が抱えているストレスだったり、捉えどころのない不安みたいなものが具現化されたようなものじゃない?そういった要素は個人によるところが大きそうだから断定はできないけど。」

    それだけ言い終えると、彼女はくるりと向きを変え屋上の真ん中へ歩き出す。その足取りは歩くというより、跳ねているようだ。とてもしなやかで、その様子は『歩く』という行為に対して有り余った力が自然と彼女を跳ねさせている、そんな具合だ。

「記憶って花みたいだよね。水をあげたら咲いてさ、少し枯れてもそれでまた生き返る。」

 そう言って彼女は笑う。その無邪気な笑い声は、固く捻じり閉じられた蕾が音を立てて花開くように冷たく張りつめた静寂を切り崩し、歯切れよく大気の中へ霧散してゆく。

 ふと気がつくと、僕は襖で仕切られた暗く湿っぽい部屋で仰向けに倒れていた。閉じられたカーテンの隙間から漏れる光は、当てもなく浮遊する埃を優しく輝かせている。僕は体を起こし、目を凝らして部屋の中を見回した。畳の床、閉じられた襖、天井から見降ろす古めかしい遺影、仏壇。人の気配は無いが、まだ火がつけられたばかりの線香が鼻につく芳香を散らしている。さっきまで誰か居たのだろうか。部屋は物音ひとつなく、静寂は仏壇の存在を増幅させ、この場所をどことなく神秘的なものに感じさせていた。僕は立ち上がり、閉め切られていたカーテンを素早く開けると、日光が明々と部屋を照らしだす。うすうす感づいてはいたが、明るみに晒された室内を見てやはりここは見覚えのある場所だと確信した。僕は再び床に座り込むと、絶えず押し寄せる懐かしさを元に深く記憶を辿る。神経を研ぎ澄まし、様々な古い記憶を掘り返してみた。だが、出てくるのはこの場所とは関係の無さそうな記憶ばかり。僕は諦め、この場所に閉じこもっている理由もないと思い部屋を出るため襖を開けた。そして、それが決定的だった、目に入ってきた情景は全てを喚起し、全てを生き返らせた。視界に飛び込んできたのは大きなベッド、ゼンマイ式のオルゴールがついた古い電話、和室に似つかわしくないモナリザの絵画、ここは僕が幼い頃に住んでいた祖父母の家だ。そしてこの部屋は祖父の寝室で、仏壇のある部屋が祖母の寝室だろう。込み上げてくる懐かしさ次第に消え去り、それは古いものを眺めたり、触れたときに感じる、積み重なった時間がその物体や空間に染み付き醸し出す重たげな気持ちに変化していった。ただ時間の経過など感じられるはずはなかった、なぜならここは何年も前に取り壊されているのだから。

 僕は祖父の寝室へ足を踏み入れ、ふと窓の外を見る。すると向かいの道路の少し離れたところに無表情で佇む6,7才くらいの幼い少年がいる。直立不動でどこか悲しげに俯いていたが、その目はしっかりと僕を睨みつけていた。

 次に目が覚めたとき、僕は広い公園の真ん中に立ち呆けていた。ここもどこか見覚えのある場所で、恐らく先ほどの祖父母の家からそう遠くないところにある公園だろう。夕暮れ時なのか、辺りは薄くオレンジ色に染まっており、人ひとり居なければ物音ひとつなく、完全な沈黙に支配されている。そしてそれに抗うように、心臓の音がそっと体の中から浮き出てくるように聞こえてくる。僕は木製の古いベンチに腰を掛けると、何をするでもなく、ただ目の前にある路地を眺め続けた。誰かが通る気がしたのだ。いや、正確に言うならば、それを待たなければならない気がしたのだ。

 時間は刻々と過ぎてゆく。しかし暗闇が訪れる気配はなく、夕日は不気味に遊具を照らしている。落ちる影は完全な無を体現するかのような深淵で、どこか粘り気を含むように黒々としていた。ブランコはまるで固定されているかのようにピタリと止まり、ジャングルジムは酷く錆付き、砂場は寂しげに放置されている。

『風がないからこうも静かなんだ。』

 まるで人々から忘れ去られたかのような公園、微動だにしない世界、絵の中の世界へ飛び込んだようだ。過ぎゆく時間に比例して静寂は増してゆく。これは本当に静寂なのか、僕の耳が聞こえなくなってしまっただけなのではないのか、そんな気さえしてくる。静寂の限界、耐えかねた僕は叫び出したい衝動に駆られる。人が踏み込むべきではない種の静寂、"ここにいるべきではない"と無言のうちに伝える静寂、心臓の鼓動その合間を引き延ばしてゆく静寂。深刻さは増し、色彩は失われ、世界の上下は入れ換わり、激しく回り始める。これは本当に静寂なのか、単なる孤独なのではないのか、いや、孤独だからこその静寂なのか、いずれにせよ己の中にあるものが煩すぎる!!

 霞み、揺れ動く視界の中、振り子がすっと動くようにそれは表れた。老人が子供を背負って歩いてくる。僕はなんとか立ち上がり、ゆっくりと一歩一歩確かめるようにして彼らに歩み寄る。だが老人は僕に対して見向きもせず、水平線を眺めるようにその視線を遠くに漂わせていた。眉間を流れる汗は純真さの証明のようで、眠り重たくなった子供を抱え弾む息には迷いが無かった。

 もちろん僕にはわかる。その老人は在りし日の祖父で、その小さくも安寧に満ちた背中ですやすやと眠る子供、それは紛れもなく幼き日の自分自身。

 涙が頬を伝う。泣くということがこんなにも強い感情を伴うのか、僕はそんなことすらも忘れていたのか。涙は、不条理、不安、後悔、様々な感情が飽和して体から押し出されるように溢れだす。照りつけていた夕日は波が引くように夜空へと還り、涙は僕を飲みこんでゆく。

『一人は寂しい。』

 あの日の僕は祖父母の家の前で立ち尽くしている。憎しみに満ちた、今にも泣き出しそうな顔で、意識だけの存在である僕を睨む。『そんな顔で、そんな目で見ないでくれよ、君はなにもわかっちゃいないよ、これは君の『末来』じゃないか、もういい加減同じものを見ようぜ、ここから先は任せてくれよ。』

 彼女は屋上の中心にある古いベンチに腰掛け、大きなあくびをするとその腕で顔を拭った。そしてあくびを引きずったかのような、どこか間抜けな調子で語りだす。

「泣くって行為はさ、やっぱ大ごとなんだよね、ただ涙が流れるだけなのに、それが自分自身の制御下にないんだから。」

「うん。」

「感情が込み上げるだけで制御できないものがある。」

「うん…。」

 辺りは真っ暗だ、出入り口の扉だけが赤い照明に照らし出されている。錆付いたノブがゆっくりと回り、ドアは開く。しかしここへは誰も入っては来ない。ただ微かな風と、線香の匂いだけが舞い込んできた。さよならは何のためにあるのだろう、なぜさよならを言わなければならないのだろう、また会えると思いたいから?もう会えないかもしれないから?言葉だけでも、上っ面だけでも同調したいから?

「過去にさよなら。」

「過去が今にさよなら。」

 もうこれで抽象的なものは何もない、ひとつとして記号などではない、全ては一致を見る。

ソドムとゴモラ

雨が降ってきたな、そう思って傘を開く、耳にはイヤホン。

車のヘッドライトは少しだけ大げさに雨を照らす傾向がある。実際はそんなに降っていないのに、その灯りは降りしきる雨を直線的に、地面に刺さるように直進しているように見せかける。鋭利ですらある。

音楽を聴いていれば雨が傘を叩く音など聞こえない。バラバラバラバラと鳴るあの音はやっぱり好きにはなれない。だから音楽を聴いているというのに、帰りついた頃にはいつも以上にびしょ濡れになっている。「濡れるからきをつけろよ」という警告音みたいなものなのだろうか、バラバラ鳴るあの音は。音楽と傘の角度の関係性....。

「雨が降り始めたときっていい匂いするよね」このセリフはきっと複数人から、複数回聞いた。果たして本当にそうだろうか?埃の匂いなのに?雨で地面が冷えるとなぜか立ちこめる土埃の匂い。埃っぽくない場所で埃の匂いがするといい匂いだなって思うのだろうか。

コンビニ袋を傘の柄にかける。両手を塞ぎたくないからそうしているのだけどやっぱり重いからって途中でそれをやめる。濡れること以上に手が塞がるというのはかなりのストレスになる。

鳥の鳴き声が聞こえると、雨がやんだのかと思ってしまう。それで窓を開けても、だいたいは変わらず降り続けている。

ブライアン・イーノを聴きながらだと雨音も穏やかなものになる、そう聞いたことがある。これが環境音楽の効用だと、平穏が訪れる音だと。それは本当か、無感情とセンチメンタリズムのギリギリのラインを攻める音がブライアン・イーノ。彼の音楽はビートが無いから自然の音に溶け込む。溶け込むけれど、感情はやっぱり聴いていないときとは違う。言いたいことはわからない。

創作「夕暮れと焼き肉」

「ゴミ、出してきて。空き缶。」

「え?空き缶の回収は昨日だったんだけど。」

「ええ?ならそこいらのテキトーなとこに捨ててきて。自販機の横にあるゴミ箱とかにさ。」

「やだよ….。」

「ああ?いいじゃんよ別に、そうしなきゃ片付かないんだって部屋が。」

「あー、はいはい。わかりました。」

ぼくはトートバッグに空き缶を詰め込み、素足にサンダルをひっかけると鍵も閉めず家を出た。

夕暮だ、暗闇が敷かれてゆくように、夕日が手を引かれて消えてゆくように、辺りは音もたてずに暗くなる。いや、さっき夕焼け小焼けが流れていたっけ。今日が終わる。月曜日が迫る。つまりまた明日から学校というわけ。姉ちゃんは明日有給を使って仕事を休むと言っていた。ズルイ。

空き缶をガツガツとゴミ箱へ放りこむ。パンパンに膨らんでいたトートバッグはぺしゃんこになった。

「ジュースが飲みたいな。」

今空き缶を捨てたというのに缶ジュースを買おうとしている。やめておこう、怒られる。

風が生ぬるい、心地よい、予想通りだ。きっとそうだと思っていた、外はきっと心地よいって。月曜日からの1週間を耐え抜く力を蓄えるためにも、日曜は極力家でじっとしていることが多いけれど、日が暮れるまでベッドやソファの上でだらだらとしているというのも、それはそれで虚しい気分になる。だから姉ちゃんに空き缶捨ててこいと言われたときは散歩の良い口実ができたな、と思った。口では「えーっ」て言っていたけど。

気付くと10分くらいは歩いていただろうか。何を考えていたんだっけ、あ、そうかハルカに彼氏ができたってこと考えていたんだ、つれぇなぁ、あんな可愛い子がガラの悪い筋肉バカの野球部野郎と付き合うとは。絶対あとで後悔するだろ、汚点だよ汚点、人生の汚点!女の子なんてみんな文系の地味な男と付き合ってりゃいいんだよチクショウ。運動ばかりしている人間は何を見るってんだ、何を感じるってんだ、何に気付くってんだ。あいつらいつも同じものしか見てないじゃないか。帰宅部を舐めないで欲しい、有り余る膨大な時間を思索に費やしているんだ、過去も今も未来も全部1歩上から見ているんだ、見ようとしているんだ、1本道をどれだけ早く走りぬけられるかしか考えていないあいつらとは違ってぼくは森を抜けなければならないんだ。

イライラにはカルシウムがいいんだっけ、ぼくは行き着いたコンビニで250ccパックの牛乳を買うと店を出て駐車場の脇に腰を下ろす。ストローを抜き出し、パックに差し込む。しかしストローがいまいち伸び切っていない気がした、沈み込みすぎている。ぼくはもう一度ストローを抜き出すと、先端を口に咥え反対側を手で摘みグググと強く引っ張り、再度パックに差し込む。「あんまり変わんねぇや。」

子供2人が目の前を、大きな声で笑いながら通り過ぎてゆく。日は完全に沈んでしまった。街灯が冴えない光を気だるく散らす。牛乳は1分で飲み終わった。あ、母ちゃんからメールだ。「今夜は焼き肉です。」

牛乳飲んで焼き肉食べるのか、牛ばっかだな、牛。帰るか。

虫が鳴いている、空は夜でも晴れている、帰らなきゃ、明日って月曜だっけ、寝たくねぇなぁ、やだなぁ、焼き肉、はやく食べてぇなぁ。

怒りはぶつける為にある

前回に引き続きまた音の話である。

 

 これは僕が横浜のアパートで一人暮らしをしていたときの事だ。有り余る時間に束縛の無い部屋、その頃の僕は「夜に遊んで朝に寝る」という大学生の義務を抜かりなくこなしていた。そんな日々の、ある日の朝。本日も任務完了だと意気揚々と布団に潜りこむ朝7時だったが、その僅か1時間後に壁を破壊するかのような打撃音によって飛び起きる。そしてワケもわからぬまま耳をつんざくチェーンソーのような音にしばらく茫然とするのだった。ハッとした僕はなんだなんだなにごとだと玄関を飛び出すと、即座に視界に広がる無垢な景色と熟練風味な作業員の存在によって隣の部屋がリフォーム作業中なのだと知った。

 勘弁しろよ、僕はこれから寝るんだよ、この生活サイクルは大学生の務めだろう、義務だろう、それもわかっちゃいないのか。僕は母に電話する。こういうときは母に電話と相場が決まっているのだ。特に男は。

 あ、もしもし母さん?あのさ、隣の部屋がリフォーム工事でうるさいんだよ。朝8時から騒音撒き散らしてさ、ん?それくらい我慢しろ?あんたが入居する前もそうやってリフォーム入って誰かに迷惑かけたって?いやいや、それとこれとは別ですよ。だってこんな早朝からガチャコンガチャコンされたら大学生の義務が果たせませんって。まさか夜に寝ろって言うんですか?

 

 これは僕が実家でダラダラとした悠々自適な生活、言いかえると、大学生の義務をしっかりと果たしていた日々のとある朝のこと。「夜に遊んで朝に寝る」今日もお勤めご苦労様ですと僕は朝7時に布団に飛び込んだ。だがその1時間後、高速で回転する刃物が小石を弾き飛ばす「チュインチュイン」という音と共に甲高い2ストロークエンジンのような騒々しい音によって僕は飛び起きた。なんだなんだなにごとだと窓まで駆け寄りカーテンを開ける。すると、近所のご老人方がその折れ曲がった腰に似つかわしくない暴力的なきらめきを所持していた。草刈り機だ。草刈り機でせっせと除草作業をこなしていたのだ。しかも皆して「本当はやりたくないんだけども草が伸びては困るしなぁやれやれ」といった具合の表情をしている。

 ふざけるな、こっちは大学生のキツイノルマを日々こなしているんだぞ。こんなことで眠りを邪魔されてたまるか。僕は母に相談しようとリビングへ向かった。こういうときは母に相談するのが一番と相場が決まっているのだ。特に男は。

 あ、母さんおはよう。あのさ、隣のアパートの庭、草刈り機の音がうるさすぎて寝れないよ。苦情言った方がよくない?え?みんな老人なんだからこういう作業は朝の涼しい時間にしないときついって?いやでも僕には義務が…ん?大人になれって?ええ?

 

 隣人が大人数で騒ぐなどしてうるさければ壁を叩くなりピンポンして苦情を言うなりすれば良い。雨風がうるさければテレビに向かって罵詈雑言を浴びせればよい。でもリフォーム工事や草刈りの騒音はどうしろというのだ。仕方がない?我慢しろ?もう大人だろ?いや、それはわかる。わかっている。しかしその正論は僕の抱える怒りのやり場をどこか知らないところへ消し去ってしまうのだ。知りたくない、朝の騒音より自分の怒りの方がよっぽど理不尽なのだとは知りたくない。いや、とっくに知っていたけども、理解はしていたけども、やり場の無い怒りはどうすればいいんだ?まるでウルトラマンによって家を壊されたような気分だ。

「怪獣がいたんだ。たまたま足元に君の家があってね、仕方なかったんだ。じゃなきゃやつらを倒せないだろう?我慢してくれよな」