縦裂FNO

日々、見るもの流れゆく物の例え。

創作『幹部たちの死』

1.寝坊と死刑

オウム真理教の元幹部たち、死刑執行されたな、7人一気に。」

「されたされた。でもなんか不思議な気分だよなぁ、だって子供の頃、麻原がテレビ出たりしての覚えてるぜ。しかも選挙に出たりしてさ、選挙カーの上で変なうた歌って。そんな人たちがバイオテロ起こして首にお縄だもんな。」

「しかも昨日、麻原の死刑執行日の詳細も公表された。」

「大人しく受け入れたのかな?」

「だと思うよ。というか、朝7時40分に『出房』って言われ刑務官に連行されて8時には執行されてる。死を恐れる時間すらないぜ?」

「そうかな?たぶん目が覚めた瞬間、既に遅刻が確定しているときの気分に近いと思う。ただひたすらにどうしようもなくて、冷や汗だけが出てくるあの感覚だよ。」

「あー、それか、わかる。『やべぇ!どうしよう!』とか考えてる間もどんどん遅刻しているわけだけど、それと同じで『え?おれ今から死ぬの?』って考えてるうちにどんどん執行の準備が進んでる。」

「だからそういう感覚を抱いたまま死んだんだと思う。」

「寝坊してベッドの上で言い訳や仮病で休むこと考えているうちに死ぬようなものか。」

「恐ろしい!」

「ゾワゾワする。」

 

2.心配しないで

「先日死刑が執行されたオウムの幹部の中に井上嘉浩という人がいた。知ってる?」

「髭の人でしょ?なんか顔つきで覚えてる。」

「そうそう。その人が執行される直前に言った言葉が『お父さんお母さん、ありがとうございました。心配しないで。』だったんだよ。この『心配しないで』って発言がなんか形容しがたい変な空気を帯びていて、それが引っ掛かるんだ。」

「確かに生々しいとも痛々しいとも言えない感じがあるね。そもそも何に対して『心配しないで』って言っているのかが分かりにくい。」

「そこだよ。自分の死に対してか、これから世間で起きることに対してか、あの世でのことか、いろいろ考えてしまう。」

「特定のことに対してではないのかも。『執行のとき怖かったんじゃないか』とか『地獄で苦しんでいるんじゃないか』とか、普通親が考えてしまうそういった事柄に対してすべて『心配すんな』と。」

「ただ、最後の最後に『まずは、よし』って言ったらしい。だから死後の世界というか、自分の死後に対するイメージみたいなものがあったのかもしれない。でなけりゃこれから死ぬのに『まずは』なんて言葉を使わない。』

『死刑が確定した日から何百回、何千回、何万回と繰り返してきた執行のイメージから派生した自分なりに完結させるべきものの手順があったのかもしれない。』

『それでちょっと話変わるけど、この井上って人はGoogleで検索すると少年時代にNHKに出演したりしてて、その時の画像が出てきたりする。」

「見せて。」

「これ。」

「可愛い少年じゃん。」

「そうなんだよ。こんな目をキラキラさせた少年が死刑になったんだ。だからなんか上手く結び付かないんだ、いろんなことが。ちなみにこの人のWikipediaを見るとけっこう人間的な人だったんだと感じられる。」

「帰りの電車で読んでみるよ。」

孤独死を許すな

最近、自宅の周りのものがどんどん消えてゆく。家から一番近いところにあった自動販売機、古い民家、病院跡地などなど。

そこにあったものがふと消えるというのは不思議な感覚がする。二度とその空間を再現できないという点に於いて、それは生物でいうところの死に近いものがある。空間など、壁と天井があればすぐにできてしまうものだが、同じ場所でも同じ空間と言うのは再現できない。なぜか空気はいつも必ず違う。自分自身が持つ空気が違うというのもあるけれど。

片づけの途中に出てきた中学生のころ使っていたガラケー、充電器もあったので電源を入れて画像フォルダを覗く。いろんな時のいろんな写真、懐かしさやら恥ずかしさやらいろいろな気持ちがする。そんななか、1枚の写真に目がとまる。その写真には古びた校舎が写っている。僕が九州に住んでいたころに通っていた小学校の校舎。今はもう取り壊されて存在しない校舎。まだ7歳か8歳だったころの、その場所での記憶が蘇る。当時からボロボロだった校舎は「ゴキブリが多い、汚い、お化けが出る」なんて言われていて、みんなから恨み嫌われていた。だから太陽が傾くころには人もおらずひっそりとしていた寂しい場所。そこでどんなことがあっただろうとか考える、思い出せるのは、球根の栽培をしていたとき、僕のだけ芽が出なかったこと、いつも一か所だけ鍵が開いている窓があること、隣に座っていたイマイ君の父親が逮捕されたこと、トイレが臭かったこと、風が吹くと窓が酷くガタついてうるさかったこと、理由は覚えていないけど僕が藤田君に重傷を負わせてしまったこと。それらが過去に存在していたのだと証明できるのはこのレトロなデジタル写真と僕の記憶だけ。写真さえ無ければ、そこに何かがあったという確証はただ記憶の中にだけ。輪郭が薄くなって消えつつあるような記憶、西日に焼かれて色褪せたポスターのような記憶、これからも僕が抱えて生きてゆける記憶なんてのは、そんなものだけ。だんだんと校舎の事がかわいそうになってきた。街も、人も建物も出来事も孤独死をするのだろう。20年近く前のあの場所は孤独死を免れた。僕が生きている限りは、誰かが思い出す限りは。

シャッターを切る瞬間に求めるもの。自分の顔、料理の写真、友達との楽しいひと時、そんな場面もいいけど、時には何も起きていない街の風景を撮るのも良い。きっとその瞬間、瞬間に、街の記憶、街の胎動、街の顔、街の姿、人の顔、人の気持ち、人の存在がある。誰も孤独死しないためにも記憶に留めておけるものは少しでも多く焼き付けておく必要がある。

飽和するアナログ

ITの仕事をしているとITに関する技術が恨めしく思えてくる。というのも世の中を便利にする為のIT、しかしそれを構築する側としては導入後にシステムを管理しなくちゃならないワケで仕事がどんどん増えてしまうからだ。

ならばシステムを構築したあとに、そのシステムを自動で保守するシステムを作る必要がある。要は人間が完璧に作り出したAIが自らの欠点を補完したさらに高度なAIを作り出す、シンギュラリティの到来ような時代が必要なのである。

土曜日の夜、ここ最近にしては冷たい風が吹き付ける中、僕は新宿へ出向き買い物をする。同伴者から「腹が減ったよ」と言われたので歌舞伎町付近の古めかしい沖縄料理屋に入る。カウンターのみの狭い店内、開け放たれたドア付近だけがポツリと空いていたので、ソーキそばの食券を手にそこへ腰掛ける。へい、おまち、この店はたまに利用するものの初めて食べるソーキそば、肉は柔らかくて美味しいが、軟骨が凄まじい。ストローのような軟骨がたくさん入っている。これは食べて良いのだろうか?味は単純だけど複雑な食感。箸で肉をばらしているとだんだんと気持ち悪くなってきた。とりあえず七味をドバッと入れて麺をハムハムと食べる(啜れない)。背中からは冷たい風と人ごみの喧騒、ネオンの輝きと高層ビルの圧力。僕はこの場所でITの時代の中でもアナログに対する需要を感じた。食べることもアナログだ。ゴーヤを炒める火も、煙もアナログ。アナログである人間のデジタルへの希求、しかし切り離せぬアナログへの生理的欲求。こうしている間にもスーパーコンピュータは指数関数的に進化する。二の二乗、二の三乗、二の四乗...。

やっぱりラフテーそばの方がいい、同伴者は言う。自分も昔そうだった、クセがあって食べにくい、だからあんたじゃ食べれないと思ったよ、じゃあなんで早く言わないんだ?僕らはアナログだから記憶の並列化なんてできやしない。僕は今こうしてアナログな記憶をデジタルな空間に書き留める。記憶のデジタル化、読者との共有、経験への足掛かり。

冷たい風を押しのけ外へ出る。新宿はいつもざわめきが飽和している。つまり人も飽和している。押しのけるのは風だけではない。

みんないつ大人になったのか

レモンスカッシュとポッキーを買ってコンビニから出ると、アスファルトの焼けた匂いがして初夏も近いのだと悟った。僕はつい先日誕生日を迎えてまた歳をとったが、そこに季節を繰り返す事との関連性があまり見出せない。また夏が来るのなら僕はまた歳をとる。でもずっと昔に存在していた夏のことを思い出すとき、僕は子供には戻らない。季節はなんどもなんども繰り返す。しかし、それは世間から遠く隔離された所で進行していて、僕はいつから自分が大人になったのか知ることができない。

つい数日前、Facebookのプロフィール欄から自分の誕生日を削除した。なぜなら毎度「誕生日おめでとう」とメッシージを飛ばしてくる人がいるからだ。わざわざ時間を割いてそんなメッセージを送ってくれるのはありがたい気もするが、「ありがとう!」と一言、機械的な返事で澄ますのもなんだか気が進まず、かといって自分なんぞに気が効いた返事はできない。だから消した。それにもう学生でもないのだし、そんなやり取りすら必要にないように感じる。昔からの知り合いなんていちいち言葉で確認せずともお互い歳をとっていることなど解っているのだ。

しかし自分の精神が年齢に追いつけない。20代も折り返して後半に差し掛かるというのに、何かを成し遂げた訳でもなく、希薄な人生経験しか持っていないクセに何かを夢見る気持ちも消えず、同世代の結婚なんて遠い世界の出来事なのでは?とすら感じる。そんなことを年上の人に話すと「自分もそうだったよ、でもね、気持なんかより出来事の方が先に来て、あっという間に今になった。いずれ君もそうなる。」なんて言っていたけど、それは嫌だ。僕は気持ちが出来事に追いつかなければ嫌なのだ。何も分からないまま生きてゆきたくない。すべての瞬間を噛みしめたいし、直面する出来事に理解と覚悟が欲しい。だから今の状況がたまらなくもどかしい。僕はいつ大人になってしまったのか、年齢以外本当に大人なのか?それは誰も教えてくれないし、自分自身で理解しなければ一生なにも変わらない。一瞬の永遠を引きのばしたような、そんな悟りの瞬間が欲しい。だから、今年はよく考えよう。よく書こう、よく整理しよう、よく行動しよう。

 

 

鳥の筋肉

先日、昼食をとる時間もないまま仕事をしていたところ、気が付くと時刻は14時近くになっていた。もうこんな時間か、そんなことを意識した途端に空腹は襲ってくる。昼休みも終わったこの時間に社内でネットサーフィンしながらパンを齧るのもどうかと思ったので僕は会社近くの蕎麦屋に入った。

その蕎麦屋はお昼限定でかけ蕎麦にとり天丼がついて480円である。名前は『Aセット』、記号で呼ばれるAセットという名前の名前無きAセット。お、いいじゃん、と思って食券を買って厨房のおっちゃんに渡す。『Aはいりまーす!』掛け声が厨房に鳴り響く。ちなみに会社の近くには他にも蕎麦屋があって、よく行っていたのは怪しげなインドカレー屋の下にあった蕎麦屋なんだけど、そこの何が良かったかって店員がインド人だったことなんだよね、まぁ最近潰れたけど。

このお店は基本カウンターメインだが、昼休みも終わり客もまばらだったので僕はテーブル席に座った。それくらい許してよって気持ちで。ただそのテーブル席一帯だけ内装がウッド調でどうも雰囲気が違う。しかもよく見るとなんちゃらカレーハウス(よく覚えていない)とかいうロゴがあちこちに張られてあってどうにも気になったが、とりあえず無視して「Aセットお待たせしましたー」と呼ばれるのを待つ。まさかと思って微かに聞こえる店員の話し声を聞いてみたが、やはり確実に日本語でヒンディー語ではなかった。近藤さんも大変だなぁとか聞こえたし。

それで肝心の食事はというとひどく期待はずれだったのだけど、その理由は『とり天』の定義の問題であって美味しいとか美味しくないとかそういう事は関係なかったように思える。僕の想像するとり天は胸肉で繊維が歯に詰まるようなパサパサしたものだったんだけど、今回出てきたのはモモ肉のとり天で、それはまるでケンタッキーのようだった。しかも揚げたてなのか肉に齧り付くと白い湯気がファーっと出てきてなんか冬になるとこんなケンタッキーのCMなかったっけ?とか考えてしまったし、こんなツルッとした肉じゃ米は食えねぇよ!とかなんとか、そんなこんなで二口ほど肉を齧ってとり天は残すことにした。ごめんよ、どんなに安かろうが食べ物を残すのは心苦しい。そしてとり天云々考えているうちに残された蕎麦も冷めてぬるくなりいろいろ諦めた。

結局のところワンコインランチというのは財布の中身は減らさなくとも精神を大きくすり減らしてしまうものだ。これが言いたかっただけ。

形は無いけどカタチになる

自分の仕事、6割くらいはメールだと思う。とにかく毎日100通以上のメールが来るし、頭を空っぽにして定型文を打ち込み、キーボードの文字が削れて薄れる程にそれらを捌く。そしてある日の昼休み、僕はパンを齧りながらメールチェックをしているときに思う。「『形』って言葉多用しすぎかなー」と。

形とは何か、と考えたとき、普通は物体を形成する輪郭のようなものをイメージする。四角いディスプレイ、丸いパン、細長い指、アーモンドのような目。「形作る」と言うくらいだから構成要素がいろいろと混ざり合って輪郭を作るのだろう。

しかし僕がメールで使う「形」は物質ではない。一連の流れをパッケージングしてそれを「形」と言っている。「分割注文の一括請求という『形』」、「一度会社に戻って打ち合わせに向かう『形』」などなど。正式に表現するなら「形式」だろうか。無形だけど形。

こういった表現は日本語だけ?英語やフランス語や中国語では一連の流れを「形」とは言わないのだろうか?形式は英語で「format」だけど日本語で使う意味とは少しズレる。どちらかと言えば「go through」のほうが意味が近いかもしれない。工程を踏んで進むイメージがある。

まぁこれ以上あーだこーだ書くのも面倒だし実際どうでもいい話なのですがね。

 

漫画返せ

 早稲田松竹で映画を観た帰りのこと。魚喃キリコの漫画が原作の映画『blue』を観た。作品の良し悪しは別として、なんとなく鑑賞後はひとり街を闊歩しながら頭の中で言葉探し。実経験では持ち得なかった感情を映画から得るのだ。それはただの暇つぶしかもしれないし、カッコつけたいだけかもしれない。とりあえず誰に語る訳でもない映画の感想をあーだこーだと考える。入館時はまだ明るかった空も映画館を出る頃にはすっかり暗くなり、日中は初夏のように暖かかった空気も季節相応に寒い。だが、この落差が映画の醍醐味だろう。映画の中で進む時間、現実の時間、明日が近づく憂鬱。ビルとビルの間からは冷えた風が強く吹き込んでくる。そんなこんなであっという間に駅へと着いた。

 改札を通過後、高田馬場から発車直前だった西武新宿線に飛び乗る。帰宅ラッシュの時間帯、満員だったが、なんとか隙間を見つけて体をねじ込み、ぼーっと窓ガラスに映る自分を見ていた。すると背中に誰かの鞄が当たる。痛い。硬い。誰だ。きっと鞄には弁当箱か水筒が入っているに違いない。ことによるとPCか、それくらい硬い。痛い。鞄やリュックは前にして電車に乗るのがマナーだろ、そんなことを考えながらそっと後ろを振り返ると仕事帰りの若い女性。あれ?と思う。知っているような顔。後ろから少しだけ見えた横顔だし定かではないけれど、たぶん大学時代の同級生。どうしよう、声を掛けてみようか、でも人違いだったらどうしよう、いっそここは向こうから声を掛けてもらえるよう仕向けるか?しかし変わらず美人だ、でも彼氏もいるし近々結婚するとかそんな噂も聞いたぞ、うわ、なんか悔しい、といろいろな気持ちが僕の中を駆け巡る。たしか彼女は沼袋に住んでいたはずだ、だから沼袋で降りたら確定だ。でも電車を降りはじめた瞬間に声かけてもダメじゃん、「久しぶり、あ、降りなきゃ、じゃーねー」で終わってしまう。どうしたものか。後で飲み会とかで会った時に「あの日電車乗ってた?」とか言われるのも嫌だ、それはなんだか臆病者みたいじゃないか。そういえば学生時代、彼女にけっこうな量の漫画を貸していたっけ、そしてそれは一冊も帰ってきていないし、彼女の友達に又貸しされているとも聞いた。それを思いだしてからは尚更声を掛ける必要があるように思われた。「こいつ、鞄を俺の背中にガツガツと打ちつけながら澄まし顔で電車乗ってやがる上、漫画も数年借りっぱなんだよな」というわけでだんだん腹が立ってきた。なんとか今ここで声を掛けて漫画を返してもらう約束を取り付けないと、でもこいつ婚約してるんだよな、そんな約束はできないか、いやでも結婚してからではもっと手遅れだとかんなとかで電車は沼袋に到着し、彼女はすたすたと電車を降りて行った。

 その日の夜、ベッドの中で「変わらず美人だったなぁ」とか考えて寝た。