縦裂FNO

俺はポエマー、すべてイカサマ。

「夜中にひとりで泣いちゃったり」他

1.「夜中にひとりで泣いちゃったり」

自分が理性を離れた瞬間を見つけるのは難しい。言語化される前の、イメージだけが巡り巡る感じ、それを覚醒した意識が捉える前に掴みたい。

鳴り響くアラームの後、5分間のまどろみ。寝ているのか起きているのか、そんな時、遥か昔に住んでいた遥か遠くの場所のことが、目の前というか、手元にあるような感覚になって、僕が布団の中で考えるのはさっさと起きて顔洗って歯を磨いて着替えてじゃあそこに行こかってことなんだけど、すぐに理性が戻ってきて無理なんだってことがわかる。

 

理性がもたらすのはやる気のない惨めな空腹。ただ冷蔵庫は空っぽで、食べ物を買いに行かなければならない。

年が明け、訪れる厳冬。家を出ると外は酷く寒かった。行き先は近所のコンビニ、さっきまでの夢を引きずりながら、というか、嫌々ながらセンチメンタルな気分でコンビニへ向かう。乾き切った冷たい風に背中を押されて、しかめっ面をしたら唇が切れた。

道中、温まるために買ったホットココア、しかし飲み干してしまうとただのスチール缶になって急速に冷える。もはや手に持つことすら厭われるので、缶のフチを前歯で噛んで両手はポケットの中。闊歩するたび鼻先に当たるプルタブ。飲み口に息が掛かるとボーッというマヌケな音がした。

 

僕の住む家はどんなものからも遠くにあるのではないか。駅からも、コンビニからも、勤務先からも、如いては社会生活からも。

ぼけぼけと歩いていると公園に差し掛った。誰もいない、誰も通らない。ベンチに座り、曇天の空を見上げる。視界に入るのは薄汚いマンションなのかビルなのか。その屋上に干されたタオルが力なく風に揺れる風景。こうしていることも何年後かに夢で思い出すことがあるのだろうか。理性の外に放りこまれる記憶、景色、出来事、人々。行く先々でのセーブポイントのような、そんななにか。

 

日に日に感情の数が減っている。今や2つか3つの感情だけを、行ったり来たりしている。だからコンビニで買うものも毎度同じ。美味しいだとか、不味いだとか、そんな感情すらも面倒だから、毎日なにも考えないで済むように同じものを買う。そしてそんな自分に満足して、感情の起伏が激しい他人を馬鹿にして、夜中に聞こえる冷蔵庫の音のように寂しげな気持ちなる。際限のない繰り返しの日々、ただ擦れ合う側面は削り取られている。いつしか本当のなにかにぶち当たることができるのだろうか。

 

2.「たくさんの気持ちが失われた時間の中にある」

1月中旬。客先に早く着きすぎた僕はベンチに座り、稲荷山公園駅前の殺風景を眺め過ごしていた。社用のスマホ機内モードに切り替え、自前のスマホのブックマークを4周ほどブラウジングし、忙しげな営業マンのように腕時計をちらりと眺め、さてそろそろか?と腰をあげようとしたとき、なにか手紙のようなものを読みながら駅に向かって歩く一人の老人が現れた。すると彼は急に立ち止まり、ポケットからライターを取り出し、躊躇うことなくそれに火をつけ地面に投げ捨てた。

手紙らしきものはみるみるうちに燃え上がり、吹き付ける風で散り散りになった。老人が過ぎ去った後、僕は紙の破片を拾い上げる。そしてそこに書かれた言葉の断片を確認し、客先へ足を向けた。

 

3.「人として最低限必要なもの」

足が汚れるのは地獄に一番近い部位だからで、頭が一番重要なのは天に一番近いからである。だから飛び降り自殺をするときは頭から激突する必要がある。天地をひっくり返す革命を夢見ながら頭を大地に叩きつけ、浜辺のスイカの如く頭蓋骨をかち割り、脳に詰まった愛のある思想をぶちまけなければならない。激突までの長い走馬灯、それが僕の人生で、蔓延る日常に辟易しながらも世界の真理を見つけることができ、よぼよぼの老人になって「良い人生だった」と目を閉じ呼吸を止めた瞬間に迫りくる地面は!!

 

4.「物質的にあり得ない」

会社の後輩にめちゃくちゃ頭の悪い奴がいて、そいつは事あるごとに「物質的にあり得ない」と発言する。顧客の無理な要望に対して「物質的にあり得ない」、理論的にあり得ない話に「物質的にあり得ない」。これはなかなか面白い話で、要は『物質』でない思考だとか思想だとか混み行った他人の感情だとかそういったものが後輩は理解できず、どんなものでも『行動』という物質在りきなものに変換して考えてしまうという彼の思考力の低さを象徴する口癖であるのだ。

社会の窓が開きっぱなし

1.

12月25日、午後13時半。馬喰町駅。馬を喰らう駅。ここはとても深く、とても薄暗く、湿気は深刻で、あちこちネズミたちが這いずりまわっている。壁は薄汚れ、派手に亀裂が入っており、大きな地震が来れば簡単に壊れるだろう。僕は背中を丸め、駅の雰囲気にビビりながら長い地下ホームを反対側に向けてだらだら歩く。途中で鼻をすすると頭の中で血の匂いがした。

1番線ホ ーム、車両でいうと品川方面列車の13両目あたりだろうか、何故かホーム向かいの壁から地下水が吹き出している。僕はこの駅に来るといつもここで立ち止まる。総武線快速電車は10分に1本しか来ないので、乗り遅れると佇む以外にやることがない。だから壁から吹き出す水を見る。ザバザバと流れ出す水は驚くほど水量があり、不規則で、見ていて飽きない。たぶん水槽の中を泳いで回るサカナを見ていて飽きないのと同じ理屈。規則性がないものは楽しい。

 

電車に乗り込むと、嘘っぱちの自分をコネコネ練り上げる。要はこれから転職の為の面接なのである。頭の中では間抜けな役者が素早い会話を行なっている。

「個人の成長は会社全体の利益なのです! フェアな社員評価と充実したインセンティブ、そのような御社の方針とお客様に感動と笑顔を与えるというリネンに共感致しました!」

「いいね!名演技!採用!」

 

2.

目的地まで歩く。あの巨大なビルまで、役者揃いのあのビルまで。どんどん近づいて行く。ああ、僕は本当に演じられるのだろうか、奴らを騙すことはできるのだろうか、胃が痛い、頭が痛い、そして何より風が冷たい。めちゃくちゃに冷たい。 手や足や眼球、肺の中までもう何もかもがすっかり冷たくなって、 鼻をすすったときの血の匂いすら真冬に鉄棒を舐めたときのような感じ。

 

「丁寧に頼み込めばだいたいの人は折れてくれるよ。僕は彼女だってそうやって落とした。」

「彼女になってくださいって土下座でもしたの?」

「したよ。額をアスファルトに打ち付けて『お願いします!お願いします!』ってね、そしたらこんな場所でやめてって怖い顔でいうから新宿の珈琲貴族に移動してさっき迄の彼女になってほしいとかそんな話は余所に山口組系のヤクザに殺されたオウム真理教元幹部の村井秀夫の愛読書 は『かもめのジョナサン』だったとか、松本智津夫上祐史浩の彼女を寝取ったとか、最近死刑が執行された井上嘉浩は少年時代に無垢な笑顔でNHKの番組に出演していたことがあったとか面白おかしく話していたら僕のことをインテリと勘違いして翌日から彼女になってくれたんだ。では結果は追ってご連絡しますので、本日はこれにて終了となります。」

「年末のお忙しい時期にありがとうございました。」

 

 

面接を終えて外に出ると辺りは既に薄暗くなっていた。5時のチャイムが流れ、僕は緊張から解き放たれて安堵してはいるものの妙な疲労感を抱えたまま駅まで歩く。夕方は憂鬱、夕方は嫌な想像ばかりしてしまう。冬の夕日はどこか弱気でサイケデリアが足りない、だから僕は普段のようにヘラヘラすることができないし、冷たく吹き付ける風が体の輪郭を模るせいで自分の立ち位置とか存在とかそんなことを強く意識してしまう。そして切実に「帰りたい」と思った。ここ数年の隠れた流行語「帰りたい」。一体どこへかわからないけど帰りたい、家にいても帰りたいと思うあの感じ、だから僕は北から飛んでくる 1発のミサイルが世界の全てを真っ平らにしてくれる妄想か、はたまた期待なのかそんなことを考えながら新宿で途中下車をしてユニクロで靴下を買って帰った。

 

3.

面接で必ず訊かれるのが「転職理由を教えてください」 という質問である。これはどのような意図を持った質問なのだろう。転職を希望する人間の8割くらいはネガティブな理由なんじゃないかと思う。そもそも不満が無ければ転職を希望しないわけであって、それくらい転職者を受け入れる会社もわかっている筈だが、あえて訊くというのはそれだけ役者ぶりを期待されているのだろう。では自分の場合、今いる会社のなにが不満かって、それは働いていると自分がめちゃくちゃに頭の悪い惨めな人間だって思い知されることなんだけど、転職活動のなにが不満かって、それは面接のたびに自分がめちゃくちゃに頭の悪い惨めな役者だって思い知らされることだ。じゃあ俺はなにがしたいんだ? それはツライ、ツライと叫び続け、見せかけの平穏とそれに対するアンチテーゼの均衡をとること、そして自分以外の誰かの、世間の、生ぬるい生の均衡が崩れ落ちるのを待ちわびているのだと何処かの誰かにわからせるため。つまり僕の転職活動なんていうのは、その実態(実態とはなんだ?)を誰かに伝えたい、感じ取ってほしいというパフォーマンスに過ぎない。転職して何かが変わるわけはないのだ。言うだけ言って実行していないのは恥ずかしいから、転職活動をしているだけであり、合否なんてものはどうでも良い。

 

4.

翌日、夕方前には仕事が片付き暇だったので、無口で気弱な後輩に「年末ってなに?新年ってなんだと思う?」 と質問を投げかける。すると後輩は眼鏡の位置を調整して少しの間を稼いだ後、遅れて驚いたような顔をした。

「年末と新年ですかww年の終わりと、始まりで・・・。」

「西暦が加算されることになんの意味があるの?昨日と今日と、これから来る大晦日と正月はなにが違うの?どう思う?ねぇ? どうよ? 何もかも数字で管理して区切りをつけてなにが楽しいのかな?」

「・・・。」

「そんなものがあるかわからないけど、100年で1周する時計のように、時代なんてすべて地続きでいいのにと思うよ。時代に妙な区切りなんてつけるから人はセンチメンタルになってしまうんだ。過去とか、未来とか、今とか言いだしてさ。あ、これは平成生まれの俺が来年元号が変わって古い人間になることの負け惜しみではないよ?いや、センチメンタルになるとか言っているのは俺だけか? だとしたら最悪だ。 誰も好き好んでセンチメンタルになんてならないのに。だってセンチメンタルになるのって恥ずかしいわな? 俺はポエマーだからさ、センチメンタルとはお友達というか、感情っていうのをうまく理解してセンチメンタルをちゃんと引き出してあげたり、おしこめたりしてあげる必要があるんだけど、ついつい後で恥ずかしくなっちゃうんだよ。まぁ翌日に思い出す酒の失敗みたいな?でもそれは感情やテンションの落差っていうものでもなく、なんというかさ、感情が住みついている階層が違うというべきかな? どんな感情だろうがそこに行きつくための入口も出口も別の場所にある。そう思わない?だからセンチメンタルな俺もそうでない俺も同じ人間ではあるんだけど、どちらが素だとかそういうものはないんだ。というか何の話をしていたんだっけ?」

「・・・。」

「俺はぶれぶれだ。まるでカメレオンだ百面相だ。最悪なんだ、もうお終いなんだ・・・。」

「・・・。」

 

5.

「 師走はツケを後回しにしても許される空気があるから好きですね。 」

「新年に苦しい思いをするのはお前だけどな。」

「いいんですよ。俺はいつだって辞める辞める詐欺のつもりで働いているんですから 。どうせ辞めるんだと考えながらであれば仕事は楽ですよ。マジでヤバくなったら本当に辞めれば良いだけですし。」

「誰が後始末すると思ってんだよ。つか辞めてなにすんだよ。」

 「ファミマでバイトっすかねぇ。」

 


6.

12月27日、帰宅すると2日前にメルカリで購入していた華倫変の漫画『 カリクラ 上下巻セット』が配達されていたようで不在表が届いていた。 僕はどことなく申し訳なさを感じながらもヤマト運輸へ再配達依頼をして部屋着に着替えインターホンが鳴るのを待つ。10分後くらいにかなりの尿意を覚え大変辛い思いをしたが、トイレに居る間に荷物が来ては困ると思いひたすら我慢し続け、荷物はその5分後くらいに来た。このようなときに限って家に誰もいない。

中学生のころ、当時の担任の先生(40代女性)が失恋した時は井上陽水の暗い曲ばかり聴いていたと言っていた。当時は「は?悲しい時こそハッピーソングだろ」と考えていたハッピー野郎だったので意味がわからなかったが、今はわかる。 単に歌の世界と自分自身を照らし合わせて『共感』していたのだ。 同じ苦しみを持つ人間が自分以外にもいればなぜか救われた気分になる。人は凄まじいほどに孤独を恐れるから同じ苦しみを持つ人間を見つけると歓喜の涙を流す。決してそれで救われるわけではないのに。つまりあのとき先生は歌に寄り添って「辛かったね、大変だったね、わかるよ、わかるわかる」と言われた気分になって気持ちよくなっていたのだろう。だから僕は同じ理論で華倫変の漫画買ったのだ。28歳でこの世を去った彼の描く漫画の登場人物は皆、普通に生きることが困難で、ふりかかる不条理に涙を流しながら耐えている。もう本当に耐えに耐えて、深く硬い地盤の上で諦めをいなすことに長けているように思える。 だから僕も身の回りのいろいろなことをうまく諦められるようにこの漫画を読む。こんな不幸は普通のことだ、どこにでもある、誰にでもある、なにもかも普通の事だ、誰しもが不幸で、誰しもが悩みを抱えている、それが普通なのだと。パワハラをしてくる上司に死体遺棄を手伝わされたり、ヤク漬けにされた上AVに出演させられたり、恋した相手が殺人犯のレイプ魔だったり、お坊さんに性病を移されたり、張り込みに来た警察官が本当は別のなにかを張り込みして気色悪かったり、そんな話。今も僕は寝る前に聖書を開くようにこの漫画を読む。様々な不条理を身に着けて、不幸を予感して、悲しみに備えるべくして。

 

7.

12月28日は仕事納め。年間で唯一の私服出勤が許される日だが、普段頼りがいのある先輩や上司の私服がダサいと気分が落ち込むので、センスがないと自覚のある人は普段通りスーツで来てほしい。午前中にルーティーンワーク的な細かい仕事を片付けて、午後からは大掃除となった。僕はとりあえずいらない書類を掻き集めてシュレッダーに突っ込んだが、一気に突っ込みすぎたのかシュレッダーは「バンッ!」といって動きを停めた。以後、2時間半に及ぶ懸命な救助活動を試みるも力及ばず、この機械が息を吹き返すことはなかった。大掃除を余所目に会議室でシュレッダーを分解している僕に注がれる視線は冷たく、なんとも後味の悪い最終日となった。

 

8.

12月29日から始まる9連休は仕事のやり方を忘れるには充分な時間で、年明けの事を考えると憂鬱になった。それに世間はやたらと「 平成最後の平成最後の」と騒ぎ立てるので、僕はまたセンチメンタルになる必要があるし、平成初期に生まれてこの時代を駆け抜けてきた身として29日から大晦日までの僅か3日間でこの時代を総括するのは無理な話であった(そもそも平成はまだ終わらない)。しかしテレビでは平成を総まとめする番組が続出し、平成の歌姫や平成のスター、平成の流行、平成の事件、平成の災害などが矢継ぎ早に取り上げられ、そして葬られてゆく。平成の17000000時間は特別番組のたった2時間でまとめることができてしまうのだろうか。深刻な不況と通信環境の爆発的進歩に象徴される僕らの青春はそんな単一的な側面だけで表象されるべきではなく、もっと深い息遣いがあったはずだ、なんてことを思いながら目を閉じるとあっという間にモヤついた眠気にまかれて現実が遠のく。

夢の中で僕はまだ小学生ほどの少年で、なぜか父の勤務先に出向いていた。しかしオフィスビルは昼間だというのに酷く暗く、誰一人いない。廊下の曲がり角や開きっぱなしの扉の奥など行き先の見えない闇の中ではバケモノのような巨大な眼球が蠢いている。エレベーターに乗り込むと床に四方50cmほどの赤い木箱が置かれていて、蓋をあけると濡れた長い髪の毛がぎっしりと詰め込まれていた。エレベーターが下降を始めると空気は一気に冷え込み、甲高い金属音のような音が耳をつんざき、地下3階少し開いたエレベーターのドアの隙間から覗く視線と目があった時、僕は目覚めた。

 


9.

機内で良い香りがすると思い、目を開けるとCAさんが飲み物を配っている。僕のことは寝ていると勘違いしてスルーしたようである。窓の外に目をやると眼下に雲が広がっていて、空は見事な薄暮である。地平線にはまだ微かに夕日が残っており、僕は目を凝らして色の境目をなぞると、夕日のオレンジはほんの僅か白く変色し、淡く青に変わる。そこから先、天に向けては黒に近い紺色へと色を深めている。

暫くすると飛行機は降下を始め、雲に潜る。するとまたも眼下に雲が広がり、同じくしてまた飛行機は雲に潜り込む。その度に飛行機はガタガタと揺れた。

犬/蟹/服/猿/露/

犬が死んだ

近所の犬が死んだ。可愛がっていたわけでもないので特段悲しくはない。ただ、放置された犬小屋を見るたびに犬は死んでもうこの世にいないのだということを思い出すから嫌なのだ。

その犬は1年ほど前から目の周りが黒ずみ出したり、明らかに元気が無くなったりしていたけれど、最近はまた元気を取り戻して喧しく吠えたりしていたので『もう歳なのかな、もうすぐ死ぬのかな』という考えがだんだん打ち消されてきた矢先だった。

いま、主のいない犬小屋には食べ残しのドッグフードの袋がぎっちりと詰め込まれている。そのせいで『不在』という実態のない概念がいつまでもそこに居座っている。

 

Landscape with crab

会社の人に貰ったどこかのお土産、蟹のスナック菓子。外箱は蟹がドーンとプリントされたパッケージ。自分は蟹が嫌いなので毎日このパッケージにさいなまされている。蟹というのはとても滑稽な見た目をしていると思う。メカニカルに折れ曲がる長い脚、小さすぎる胴体、マヌケに飛び出した眼球、ゆっくりとした動きの割には攻撃的な態度、そんな柔らかさのかけらも無い生き物。僕は部屋の片隅にある、この滑稽な生き物がプリントされたお土産の箱を見るたびになんとも言えぬ脱力感に襲われる。シリアスな思考も、堅苦しい小説も、クラシカルな映画もこの蟹のせいで全て台無し。中身を食べずにゴミ箱に投げ捨てたい。

 

服を捨てる

モノに囲まれた生活が好きというのは本当で、別に部屋が片付かない理由ではない。それでも狭い家の中では物理的に限界があるので、しょうがなく片付けをすることにした。片付けの基本、使用頻度の低いものは見えないところに隠す、つまりガラクタの行き先はベッドの下である。そこには収納ケースがあり、その中には服がある。結果、服を捨てることにした。

日曜の昼からベッドの下にある衣類を引っ張り出してゆく。すると出てくるのは8年~12年前の、中高生の時に着ていた服たち。当然ずっと陽の光を浴びていなかったわけでカビ臭いしジメッとしているが、服を取り出すたびに「こんな服あったな」という懐かしさが押し寄せてくる。不思議なもので、ほとんどの服に対して所有してたことをちゃんと覚えているし、中には大事にしすぎた結果あまり着ていない服すらもあった。印象的だったのは当時好きだったバンドのツアーTシャツが出てきたことで、背面には『'08 tour』や『'07 tour』とのプリントがあり、当時の思い出がどっと蘇りしばらく動くことができなかった。ただ今更取っておきたいと思ったところでどこにもスペースはないので、僕は苦痛に耐える修行僧のような心持ちで衣類をゴミ袋に詰め続けた。

服はいろいろな場面でいろいろな感情を纏わせてくれる。だから服を捨てるということはその時の感情も捨てるような気分になって辛い。こうして服を取っておいたからこそ思い出すことができた記憶もあるのだ。僕は心の中であばよ!とか、ありがとう!とか言いながら服と記憶に別れを告げた。

 

笑い猿

そもそも自分は笑いのツボが狭いのであまり爆笑しないということもあるけど、最後に爆笑した日や出来事を思い出せない。しかし考えてみると、僕は笑いというものを他人と共有するのが好きではない。集団の中にいる際、皆が笑っていると笑う気が失せる。なぜなら笑いは同調圧力のようなもので、瞬間的に沸き起こるあのモワッとした空気が気持ち悪いし、しらけた人間すらその空気に巻き込むからだ。いい大人が赤ちゃんのように手を叩きケラケラ笑っている様は非常に滑稽。だから忘年会は地獄、皆タンバリンを叩く猿のおもちゃに成り果てる。一人でニタニタ笑っているのも気持ち悪いが。

 

露天風呂

先日久しぶりに露天風呂に入った。ただめちゃくちゃに寒かったので、お湯に浸かるまで全裸で移動する時間は死ぬかと思った。

そして強い雨が降っていたので、目を開けることができなかった。空を見上げると目に水が入ってくる。ただ、外で裸になるのは案外気持ちが良い。

 

これはお前の分

最近見た映画、デヴィッド・フィンチャー監督の『ファイトクラブ』。

Amazonプライムビデオにあったので3日で2回観たり、、

これがまた自分が常々思う事や感じることと見事に合致している作品というか。。

「俺が言いたいのはこれだ!」という作品に出会えるのはやはり気持ちがよい。後ろで「そうだそうだ!」とヤジを飛ばす無責任な国会議員のような気分である。

内容をざっくり書くと、エドワード・ノートンとブラッド・ピッド演じる主人公たちがなんやかんやあって出会い、なんやかんやあって場末のバーの地下に『ファイトクラブ 』を設立し、社会的弱者、強者入り混じってお互いを殴り合い、その痛みの中に生きている実感を見出す物語である。

 

『痛みの中に生の実感を見出す』

 

これはある種の自傷行為ではあるが、余りに低い自尊心が故にリストカットなどを行う若者とは少し違う。大人たちが日々繰り返される虚無的日常から脱却する為の『自己の再確認行為』である。

淡々と仕事をこなす日々は長い人生においてなんの凹凸にもならない。社会人になれば誰しも一度は巻き込まれる、オーバーテイクのないオーバルコースでのレースのようなつまらぬ循環である。しかし忙しくて余裕がなかったり、ミスをして酷く落ち込んでいたりする時は「確かに自分は生きている、生きているから苦しいのか」というニーチェのような生の自覚を得られる。疲労やミスという精神に打ち込まれるパンチ、もはやファイトクラブ同様である。こうして僕は「忙しい、苦しい、あいつは馬鹿だ、使えない、あの担当者は頭がおかしい」と目を血走らせながら喚き散らして生の実感を得ることができる。抜け殻のように生きる虚無的な日常が良いのか、生の実感を得ながらも苦しむほうが良いのか。それともオウム真理教の洗脳方法のように苦しみ抜いた末の平穏を夢みるのか。

苦しみ方に関しては千差万別で、人を殺したり、万引きしたり、痴漢をして人生を台無しにしたり、要はいろいろ。けれども「酷さ、深刻さ」は日々増している。それだけ人は「生きる」という事に対して無自覚で感覚そのものを失っているのだろう。

もちろん何もしない人も多い。する必要もない人だっている。結婚したり、子供が生まれたり、美味しいランチを食べたり、出世したり、そういったことだけでジェットコースターのような楽しい人生と感じられる人もいる、それは幸せだ、声を発する必要などない。もしかすると気づいていないだけかもしれないが。

また、苦しみだろうが喜びだろうが感覚は思考よりも優先される。感覚の多くはすぐに思考でまとめることができない。2008年の北京オリンピック北島康介が金メダルを取ったときに「なんも言えねぇ」と発言したのは、その時の感覚を思考の産物である言葉として即座に表現できなかったからである。感覚が優先されたが故の発言。そしてそれをまた再現するため、後に思考するのである。

 

2017年にすばる新人賞を受賞した山岡ミヤ氏の『光点』という作品がある。その中で主人公の少女が出会う男は冷凍食品を扱う倉庫で働いており、日々冷気により体の感覚が失われて行く。男はある日、休憩時間に味噌ラーメン食べる。別に空腹でもなく、むしろ無理に食べたせいで気持ち悪くなるのだが、彼は「胃に何かある」という感覚が生の実感に結びつくと言う。感覚が失われてゆく中でそれが救いなのだと。

つまり自分は彼の言うところの「胃に何かある」という状態を維持したいのである。でも痛いのは嫌だ、苦しいのは嫌だ、刑務所には入りたくない、一体どうしろと、何をしろと、ひたすらに考えるだけで何日も、何十日も何百日も、何千日も過ぎてゆく。受け身で他人の文句を垂れながら革命を待ち、眠ることを拒み、明日を恐れながら、インターネットの片隅で「俺は辛いんだ」と叫ぶことしかできない。曰く言い難い焦燥に駆られながらも既にどうしようもなく、また虚空の日々を送ることしかできない。目先の快楽すら虚しいだけ。

SSSick

今日も仕事が忙しい。だからずっとヘラヘラしている。暇そうな先輩の無駄話にヘラヘラ、上司の冗談にヘラヘラ、顧客からの電話にヘラヘラ、フリーズしまくるノートPCにヘラヘラ、急に冷え込む朝にヘラヘラ。

 

遅い時間まで客先に居座る。20時半、宇宙物理学の演算を行うような座標空間的ロビーから外に出て、目の前の歩道橋を渡っていると誰かの黄色い吐瀉物が乾燥しきって溶けたエイリアンのようにへばりついていた。雨が降れば、またドロドロの吐瀉物に戻るのだろうか。

テクテクテクテクテクと歩く。近づく田町駅、吹き付ける冷たいビル風と、ヘラヘラヘラヘラヘラヘラ笑っているサラリーマンたちが明日に向けての不穏な空気。うごめく雑踏、近代的な高層ビルの裏には廃墟が潜む。巨大なものが朽ちてゆく様は美しい、神秘の感覚は常に曖昧さの中にある、と有名な芸術家が言っていた。誰もいない廃墟の屋上、それでも植木はすくすくと育っている、そんな場所でさえ日は当たるのだ。設置されたままのパラボラアンテナは何を受信しているのか。

 

夜はあっという間に終わり、朝がくる。中央線快速電車、満員の車内では、大きな胸をこれでもかというほどに強調するコスチュームを着た安物のバーチャルユーチューバー動画を見る小太りの中年男、新・人間革命を読む背の低いおばさん、嘘か本当かわからない日記のような、詩のような、小説のような、よくわからない言葉の羅列をスマートフォンに書き留める男。四谷のトンネルを抜けるとき、スマートフォンの通信が途切れ、窓ガラスに自分の顔が映る。お前は今日何を見るのだと自分に問いかける。

 

秋葉原駅ですれ違ったデブの顔がパグに似ていたので、以後すれ違うデブはパグにしか見えなくなってしまい、そのまま出勤。慣れとは怖いもので、会社でパグに話しかけられても特段変だとは思わなくなる。そして昼食はパグと食べた、パグは家系ラーメン大盛りにライス×2杯を時間をゆっくりと平らげた。

「俺ってそんなに食べてないのになんで太るのかな」

これは先日のパグのセリフである。

 

その日の夜は録画しておいたNHKドキュメント72時間を見る。安室奈美恵の引退3日前から特設コーナーを設置していた渋谷109で張り込みを行い、現代にも生き残るアムラーの生態を確認する生々しいドキュメントだ。リアルタイムでも見ていたので2度目の視聴となる。詳細は以下参照されたし。

 

安室奈美恵の引退3日前、渋谷は聖地エルサレムと化していた。道玄坂では沢山のアムラーたちが五体投地を行い、血走る眼で彼女を称え、皆で肩を組みながらアンセムを合唱していたのだ。引退のそのときに向けて確実にボルテージは高まりつつあった。

 

「わたし、シングルマザーで…仕事で辛い時も安室ちゃんのE▶︎▼▽◀︎∃って曲を何度も聴いて本当に助けられて....。安室ちゃんもシングルマザーで同じ境遇だから。励まされるんです。(36歳/女性/歯科助手)」

「わたしは事故が原因で足が不自由になってしまって…でもライブで元気な安室ちゃんを見ていると自分も頑張ろうって気持ちになるんです。(40歳/女性/事務員)」

「安室ちゃんは神なの。だから私は祈るだけ。(52歳/女性/介護職員)」

 

さらに渋谷109の入り口には安室奈美恵の実寸大手形モニュメントが展示されていた。大勢の人々が己の手と安室奈美恵の手形を合わせるために列をなし、最大2時間待ちになろうかという行列を作っていた。

 

「安室ちゃんって手小さかったんだね~。(30歳/女性/公務員)」

「安室ちゃんは私の青春なんです。(38歳/女性/家事手伝い)」

「引退と聞いて、毎日泣いています。(30歳/女性/接客業)」

 

妙齢の女性たちが次々と口を揃えてカメラの前で信仰を説く。安室奈美恵の歌は常に彼女たちに寄り添っていたのだろう。

 

また渋谷109の8階、特設コーナーでは安室奈美恵グッズガチャガチャイベントが並行して開催されており、これもまた非常な賑わいを見せていた。北は北海道、南は沖縄まで、全国各地からもこのガチャガチャの為に訪れた人たちで溢れかえり、阿鼻叫喚の中、皆必死に腕を捻じ曲げる。

 

(省略)

 

そして安室奈美恵は引退した。たくさんの思い出と、感動を残して。(終)』

 

このドキュメンタリーを見て、頭に浮かんだことがある。それは「何かにすがれる人間は強い」ということである。誰しも不条理を抱えてはいるが、世間はそれをひた隠し、その空気は人々をさらに孤独へと追い込む。そんなとき、現実を忘却へと追いやってくれる強い信仰心こそ、我々が生きるために必要なのではないか。現代、冷静かつ現実が見えている理性的な人間が生きて行くことは極めて難しい。

 

夜は長い。NHKのドキュメンタリーを見終わってもまだ朝は来ない。しかしモヤのように漂う眠気が朝を急かす。付けっ放しのテレビ、付けっ放しのパソコン、付けっ放しの照明、付けっ放しのコンタクトレンズ、全ては放置されたまま、朝は来る。

僕は空っぽのペットボトルのような人間です

「ペットボトルのような人間」

僕は空っぽのペットボトルのような人間だと、毎週土曜日の朝、溜めこんだペットボトルを捨てに行ったあと思う。ペットボトルのゴミは非常に場所をとる、中身は空洞で空っぽのくせに、そんなのまるで俺じゃねーかと。

たくさんの人が集まる場所に行くと、僕は存在を薄めようとしてしまう。あまり喋らず、あまり上を向かず、息を潜めて、空っぽのペットボトルのように。そして時折チラリと瞼を開け、よく喋る出しゃばりを見かけては内心小馬鹿にするのである。(そのくせまたその人たちに会ったとき、自分の事を覚えられてないと少し寂しかったりもする。)

とにかく、毎週土曜日に溜まったペットボトルを捨てるのは嫌いじゃない。とてもスッキリするのだ。

 

「走る」

ここ2カ月くらい、週に4日~5日ほど、夜に5km~6km走っている。正直だるいと思う日も多いが、体に鞭を打って走る。別に痩せる必要もない体型だけど、走るということで日常のいろいろな不摂生に対して言い訳にできるからよいのである。お菓子を食べることも、土日にだらだらすることも、全ては走っているからペイできる。それはなかなかに気持ちが良い。それに走るときはスマホも持ち歩かない。情報からシャットアウトされる時間、無心でいる時間、ミニマルミュージックのように繰り返されるリフレインのような生活、「繰り返し」ということこそが気持ちがよいのかもしれない。僕らの小規模な生活、心臓の鼓動を感じて生きていたい。

 

「ずっと一緒にいれたらいいのに」

灰羽連盟』というアニメを見た。要はお勧めなのでHuluにアップロードされているので、加入している人は是非見て頂きたいと言うだけの話であるが。

内容は灰羽と呼ばれる人たちが静かに穏やかに日々を過ごしてゆくだけであり、大きな展開などはない。それでも、どことなく漂う死や別れの予感といった空気が悪夢のように浸食し、眠気を誘う。真夜中にひっそりと、一人で見る為の作品。見終わった頃には生まれおちる喜び、今を生きることの大事さ、死の慰め、そんなことが感じられるのではないでしょうか??

Shogyou mujou.

『不幸を避け、幸福を待つ』

年を超すとき、いつも「来年は誰が死ぬのだろう」と考える。少ししてから、「来年はどんな事件が起こるのだろう」と考える。別に不幸を望んでいるワケじゃない、ただの興味だ。これから来る年を考えるときに「来年はどんな嬉しいことがあるだろう」なんて普通の人は考えないのでは?もう明日から10月だ、答え合わせの時期も近い。

除夜の鐘が鳴り響き、初詣では皆こう考える。

「来年は皆が幸せで良い年でありますように」

「幸福」それはただ、祈りに近く、何もかもが漠然としたこの世界に於いては「不幸」であるべきことのほうが具体的で、かつ多くの註釈がついている。幸福に包まれて恍惚としている状態よりも、我を忘れて皮膚を掻き毟る自分の方が想像しやすいのだ。幸福を求めるのではなく、不幸を避けて生きる。そんな生き方をしている気がする。

 

『台所から水が垂れる音がして眠れない』

つい先日、ニューヨークタイムズに掲載された東日本大震災の写真を見た。体育館に並べられた死体袋、死人の顔は汚れ、突然の事に驚いたまま。ある者は瓦礫の中で涙し、ある者は我が子の亡骸を抱きしめ、ある者はただただ立ち尽くす。これが日本という国の、僅か7年前の姿なのかと驚いた。あまりに原始的で、あまりに無力で、そこには冷たいコンクリートの壁が囲う都会からは想像もうできないほどに多くの感情が渦巻いていた。数々の悲惨な写真からは宗教的な静謐さすら感じられた。現代は無菌室のようなもの、2011年3月11日、日本はあの日のような状況にならなければ感情を発露させることができない。

別にもっと原始的に生きるべきだとかそんなことを言いたいわけではない。ただネットワーク網の発達した時代にどこぞのラーメンが旨いだのそんな話はせんでもいいっちゅう話で、家の花壇にデカイ鼠がいたとか、庭の金木犀から良い匂いするとか、近所のバイク屋が潰れていたとか電柱に赤い風船が引っ掛かっていたとか、友達が性病にかかったとか、そんな話の方が大事なのではと言いたいだけだ。細部を見ようとしない世の中、ディティールにこだわるだけで薄気味悪い顔をされ、今夜は星が綺麗だと言えばポエマー扱い。今夜は台風です。

 

OMOIDE IN MY HEAD状態』

最近Number Girlを聴いている。高校生から大学生にかけて飽きるほど聴いたバンド、やっぱり最高にかっこいい。『Tattooあり』『鉄風、鋭くなって』『透明少女』『Num-Ami-Dabutz』そして『OMOIDE IN MY HEAD』などなど。このバンドを好きにならなければThe Pop Groupも聴いていなかったわけで、それはつまりポストパンクやNew Wave /No Wave系の音楽も聴かなかっただろうし、Dry & Heavyaudio activeなどのダブも聴かなかったということ。このバンドで僕の好みが決定されたと言っても良い。

歳をとるほどに新しい音楽を聴かなくなるという統計があるらしい。でもそんなことはどうでもいい、好きな物の中に没入していて何が悪い。そんなことをいちいち指摘されることがまさに「冷凍都市の暮らし」である。