縦裂FNO

俺はポエマー、すべてイカサマ。

小説2 『まわりまわって』

 

 地下鉄を降りて地上に出ると、わたしの願いも虚しく雨脚は強くなっていた。ほんの数秒間、ずぶ濡れになった夜の街並みを眺めたわたしは、声にならない悔しさを噛みしめ、再び地上を背にした。たしか改札近くのキオスクにビニール傘が売っていたはずだ。

 雨に濡れたアスファルトが、街灯の明かりを反射して視線の先に白い光を映し出す。その光は逃げるように、わたしの進行方向を先へ先へと滑るように移動していた。わたしは下を見ながら、その光を追いかけ、追いつめるように歩く。そうしていると、いつの間にか、かなり早い速度で歩いていることに気がついた。それはまるで自分の影を追いかけているようだった。わたしは歩を緩め、雨が傘の表面を叩くバラバラという音に耳を澄ます。

 

 待ち合わせのコンビニに到着し、傘を畳んで店内へ入ると、週刊誌を立ち読みしているアオバの肩を叩く。

「おまたせ」

「うえ…遅っ…20分も待ってたんだけど」

「ごめん。電車には乗り遅れるわ、天気はこんなんだしで…」

「まぁいいよ。とりあえず酒とつまみを買ってさっさとムツキの家へ行こう」

 アオバはパンッと音を立てて週刊誌を閉じると、買い物カゴを手に取り、その中にビールを半ダースと酒のつまみになるようなものやお菓子を投げ入れた。会計を済ませコンビニを出ると、わたしたちはほんの少しの間、雨の降りしきる空を見上げる。雨は少し弱まっていた。

「ねぇムツキ」

「なに」

「死後の世界って信じてる?」

「信じてないよ」

アオバは「だよねぇー」と言うと傘を開き、ビールを小脇に抱えながら歩き出した。

「先週、法事で埼玉のお婆ちゃん家に行ったの。たくさんの親戚が集まって来てて、そこでお婆ちゃんの妹さん、大叔母っていうのかな、その人がこう言ったの『どうせ死んだら何もわかりはしなんだから、私は自分の葬式やその後のことなんてどうでもいいね』って。それでその晩、夕食の後に私たち家族とお婆ちゃんでお茶を飲んでいるとき、お婆ちゃんが『あの人はあんなこと言ってたけど、私は死んだら何もないってことはないと思うのよね。天国ってわけでもないけど、なにかあるような気がするの』って言うわけ」

「うちの祖父母も似たようなこと言ってたなぁ。まぁ年寄りなんてそんなもんでしょ。現代人より信心深いしさ」

「それでね、そのとき私は心の中で『この人は何を言っているんだ!死んだら無に決まっているだろう!あんたはどんだけ生にしがみついているんだよ!』って思ったの」

「なんて思いやりのない女…」

「そんで、その晩寝る前に考えたんだけど、年を取ったからって死が受け入れられるようになるワケではないのかなって思ったの。80年、人によっては90年、100年と積み上げてきた膨大な自分の人生の記憶を、死によって思い出すことができなくなるってさ、それは本当に恐ろしいことなんだって思った。だからお婆ちゃんみたいに、死んだ後も幽霊となって、あの世で自分の人生を振り返る時間が欲しいってのもわかる気がしてきて」

「確かに、積み上げてきたものが多い分だけ忘却への恐怖は増すだろうねぇ。でも、老いて日々自分の可能性が減り続けるなかで生活してゆくのもツライものがあると思うよ。だからこそ『死んで次の人生に向かう!』みたいなポジティブな死の捉え方もあるんじゃない」

 そう言いながらも、わたしは自分の祖父が死の直前まで「死にたくない、死にたくない」と繰り返し言っていたのを思い出していた。

「まぁね、私たちだって好きで生まれてきたわけでもないしさ、死後にまたどこかで『わたし』として誰かの人生を始めているかも」

 

 わたしは自分の意志で生まれてきたわけではない。でも、今のわたしの人生が誰かの生まれ変わりだとしたら?死にたくない、自分を忘れたくないと言って死んでいった者の生まれ変わりだとしたら?もしそうだとしても、わたしはその人の人生を思い出すことはできないし、自分は自分だとしか思っていない。つまりそこに、自分の人生に、知らない誰かの記憶は挟まっていないわけで、覚えのない後悔や喜びなどはない。つまり「死という自我の忘却」への恐怖は杞憂に終わったということだ。ただ、その代りと言ってはなんだが、わたしたちは誰かの人生を知ることはできる。それには過去も現在も無い。自分の死後を考えたとき、なんとなくそのことが救いのように感じられた。

 

 少しの間会話が途切れる。わたしはまた下を見て歩く。右足、左足、右足、左足….わたしはそれを意識して歩く。今こうして歩いているのはわたしの意志だ。それはわたしが生きている証拠、わたしをわたしたらしめる意識。わたしは歩くという目的のために、それぞれの足を地面から蹴り上げる。蹴り上げられた足の先端から、水滴が細く長い線のように伸び上がり、それがアスファルトの地面や靴のつま先部分に降り注ぐ。それはわたしの意識の外。それはわたしの靴を濡らし、わたしを不快にさせるもの。濡れた靴の中が不快だと感じる私。それはわたしをわたしたらしめるもの。生きているとは、そういうこと。

 

「ねぇ」わたしはアオバに尋ねる。

「心霊写真とか、幽霊が映り込んだホームムービーってあるじゃない?それらに映っている幽霊ってどうしてみんな憎しみに満ちたような怖い顔をしているのかな」

「そりゃ楽しそうな、幸せそうな人が憎いからでしょうよ」

「そうやって彼らを怖がらせるだけで幽霊は満足なのかな?そう考えると幽霊ってなんかちんけな奴」

「あはは」とアオバは笑う。

「それに、死後幽霊となってそこに彷徨い続けても、生前やり残した事が達成されるわけでもないじゃない?むしろ生きていた時代が楽しくて楽しくて、幸せでどうしようもなかった人のほうが幽霊として彷徨いそうだよ。『まだ死にたくなかった!まだまだ楽しいことしたかったんだ!』ってな感じで。あまりに現世が名残惜しくって幽霊になるの」

「なるほど。それは一理あるかも。人の欲求は底なしだからね。老体がツライから自分の死に対して諦念みたいなものが出てくるかもしれないけど、実際はもっとあれこれしたかったとか思うよねぇ」

 

 わたしたちは国道の大通りに出た。車のヘッドライトや街灯に照らし出された雨は、実際にわたしが感じているよりも激しく降りしきっているように見える。それでも雨はどんどん弱くなりつつあった。わたしの傘の柄を握りしめるその手は次第に緩くなり、それに従って傘はゆらゆらと前後する。

「ねぇアオバ、もし死後の世界があるとしたらさ、そこで先に死んでいった人たちに会えると思う?会いたい?」

「うーん。会えるのなら会いたいけど、望みは薄いね」

「どうして?」

「さっきのムツキの話で思ったんだけど、幽霊がみんな怖い顔をしているのは、きっと幽霊自身、他の幽霊が見えていないからだよ。死後ずっとひとりぼっち。孤独に耐えかねてどんどん恐ろしい顔つきになってね、そして写真やビデオに紛れ込むことで少しでも自分の存在を世に知らしめるの」

「うわっ!その考えは無かったな。死後にひとりぼっちなんて最悪じゃん」

「でしょ。もし自分以外の幽霊に会えれば、幽霊同士友達とかになったりして楽しくすごせそうだもん」

 通りの先にわたしの住むアパートが見えてきた。

「なんだか話がとっちらかってきたけど、死後の楽しみが増えたって感じ」

「死後どうなっているかを伝えることができないなんて人の伝達能力もたかが知れてるよね!」

「なにいってんの!」

 

 自分が死ぬことを知っているのは人間だけらしい。でもそれは、わたしたちが言葉を知っているからだ。犬だって猫だって象だって年をとれば、日に日にいうことをきかなくなる自分の体に対して、言葉ではない、ぼんやりとした「死」の概念みたいなものは感じるのではないか。けれども、動物たちは言葉を持たないから、死がどういったものであるのかを仲間に伝えることはできない。ということは、正確に言うならば「死」という概念そのものより、「死後」という概念を持つのが人間だけなのだろう。人間は言葉を持つからこそ、死のディティールを理解し、人に伝達することができる。そうしてわたしたちは、彼岸がまだ見えていない段階から「死」の概念を知る。つまり、目に見え、感じる物事を、過去を、現在を、文字や数字として記号化してきた人間は、「死」もまたその図式に中に捉え、そしてその答え合わせとして「未来」を知りたいと思うのだ。約束された未来は現在のわたしたちに安らぎを与える。そうしてわたしたちは死の先にあるもの、世界を求める。

 雨は止んでいた。季節外れの生暖かい風は、わたしのなかにある湿っぽいものをすーっと吹き飛ばしてゆく。

「公園とかで飲みたい感じ」

「ベンチ濡れてるでしょ」

生活時間

 

 僕は今、両親と共に九州のとある田舎町にいる(田舎といっても娯楽施設が無いだけで、自然が多い的な田舎ではない)。父方の祖父母の家。

 直前まで来る予定は無かった。東京でやるべきことは多かったし、本当はこんなところに来る余裕はなかったのだけど、無性に遠出がしたくなり、両親に無理を言って来させてもらった。社会に出るまで時間がないのだ。行けるべきところは行っておかなくてはならない。

 ここではすべての事が規則正しく、時間通りに行われる。朝7時には起こされ、食欲がなくとも朝食を食べさせられる。お昼ご飯は正午ぴったりで、僕が出かければ夕飯までには帰ってきなさいと言われる。19時、母に「ごはんだよ」と呼ばれリビングへ向かうと祖父は既にお風呂を済ませている。全てに手間暇かけられた健康的な夕食を終えるとお茶が淹れられ、少しの団欒の後、はやくお風呂に入りなさいと祖父に急かされる。それが20時。

 そんな生活リズムの中で、僕がなりより驚いたのは、夜の10時を過ぎると家の中に「深夜」的な空気が漂うこと。眠りへ向かう空気がある。今このブログを書いている時間(深夜1時30分)なんて、起きているだけで罪悪感を感じてしまうほどだ。仕事から解放されている両親は日付が変わる前にはすやすやと眠ってしまう。僕はすっかり取り残されたような気分になる。

 東京での生活はどうかと言うと、普段両親が仕事で忙しいので、僕は22時や23時に夕食をとることなど珍しくはない。一人で食べることだってある。布団に入る時間は深夜2時を過ぎる。そんな生活をしていれば当然、22時など夜である事すら忘れてしまう程に浅い時間だと感じていた。それは家族ではあるが、あまりにも個人の感覚だけで生きている世界。家族が集団であるという事を僕は忘れていた。集団ということは、ある程度個人の自由を捨ててでも規律に従わねばならない。それが健康的な生活というものだろう。大学に入るまでの18年間、学校でそれを学んでいたはずなのだけれど。

死に続けている旧友

 

 これから話す事は、子供の頃、当時の気持ちをそっくりそのまま表したものではない。まだ10歳にも満たない子供に、複雑な感情の絡まりを述べる術など無いのだ。ただ、歳を重ねるごとに、当時感じていたことが少しづつ言葉として蘇り、実態を帯びてきた。そして今、自分の言葉語る。それはリアルなものなのか、はたまた時間というものが生み出した幻影なのかはわからない。 ただ、「わすれない」でいることが、なによりも大事なのだ。

 

 これは僕が九州に住んでいた頃、つまりまだ小学生低学年の頃の話。当時僕が住んでいた家のすぐ近くに小さな木造住宅があった。そこにはコウキという名の僕と同い年の少年とその弟、そして彼らを育てるお婆さんが住んでいた。なぜそのような家族構成で暮らしていたかは未だにわからないが、もともと母子家庭であったとの話は聞いている。

 コウキはボウズ頭をしばらく放置したような髪型で、いつもしかめっ面の小柄な少年だった。僕は友達が少なく、相当おとなしい子供だったが、コウキもそれは同じだった。ただ、僕よりさらにおとなしかった。無口で少し意地っ張りだったが、いつも最後は折れた。だからコウキは僕が初めて主導権を握り接することができる相手だった。

 お互い友達がいないせいか、家が近いせいかはわからないが、コウキはよく僕の家に遊びに来た。僕の習い事の日以外はほぼ必ず来ていただろうか。そしてよくテレビゲームをさせてくれとせがんだ。その小さな木造住宅を見れば誰の目にも明らかではあったが、コウキの家庭は決して裕福ではなく、テレビゲームなど他人の家でしかできなかったのだろう。単にそれが僕の家に来ていた理由だったのかもしれないが、コウキが僕に対してなんかしらのシンパシーは感じていたことは間違いないと思う。家庭環境は大きく違えど、学校での立ち位置は同じようなものだったからである。しかし僕の母は教育面でやや厳しく、テレビゲームは週に1回そして30分が限度だった。そのために結局は他のことをして遊ぶことが多かった。

 二人での遊びは多岐にわたった。自転車で競争、落書き、カードゲーム、そして時折母の目を盗んでするテレビゲーム。しかし何するにしても主導権を握っていたのは僕だったので、彼はときおり悔しそうな顔をした。僕はそのたびに優越感に浸った。その事に対して、若干の申し訳なさというものは感じていたが、友達がおらず、昼休みには図書室で本を読むだけの生活だった僕に、誰かの上に立てるという優越感は、逆らいようの無い快感だったのだ。それでも彼は僕の家に来続けた。クラスが離れていたせいか、学校で顔を合わせる機会は少なかったが、放課後になると彼はインターホンも鳴らさず僕の家の前にあるコンクリートの段差に腰掛け、僕が出てくるのをじっと待っていた。

 ある日、僕らは母に内緒でテレビゲームをして遊んでいた。するとコウキは突如「あっ...」と声を漏らし、青ざめた。彼は熱中しすぎて必要以上に力んでしまったのだろうか、コントローラー(のスティック部分)を壊していた。それを見た僕は、つい彼を怒鳴ってしまった。必要以上にきつく当たってしまった。というのも、僕はそのゲーム機を手に入れたばかりだったのだ。彼は悲しげに俯き、強く手に握りしめたコントローラー黙って見つめていた。そして涙声で一言「ごめん。ごめん....もう帰る」そう言い残して、俯いた顔を上げることなく部屋から去っていった。彼を見たのはそれが最後だった。彼はその後、全身を癌に犯され死んだ。

 

 ケンカしたその日から一週間後くらい経ったある日、コウキのお婆さんが尋ねてきた。彼女は僕の顔を見るなり、優しく微笑み、いつもコウキと遊んでくれてありがとうと感謝を述べた。それから、手に持っていた手提げを無理やり僕に握らせた。中にはたくさんの果物とお菓子が入っていた。彼女は優しい笑顔のまま、コウキは病気にかかっている、暫く入院するのだと告げた。そして、病気が治ったらまた遊んでやって欲しい、そう述べると、僕に背を向け、ゆっくりとした足取りで彼女の自宅へ戻っていった。その間、僕は一言も発していなかった気がする。

 コウキが体調を崩して学校に来ていないのは知っていたが、「入院」という言葉を聞いて僕の心はざわついた。病気だろうがなんだろうが、彼が遊びに来ないというだけで、僕はなんだか裏切られたような気さえしたし、ものすごくイライラした。まるで遊んでやっているのはこの僕だと言わんばかりに。

 入院した時点で、病状はかなり悲惨なものだったと聞いている。癌が発症したのは左足で、その後切断。しかし癌は転移しており、数か月の闘病の後、彼は短い生涯を終えた。

 まだ10歳にもなっていなかった僕は、死がどういうものであるのか理解できなかった。ただいつも目の前にいた友達が煙のようにスッと消えてしまった。悲しみすら感じていなかった。むしろ死に対する興味すら感じていた。死ぬってなんだ?天国はあるのか?死んだら焼かれるの?今生きているこの僕の肌も炎に焼かれ朽ち果てるのか?それはものすごく恐ろしいのではないか?コウキはもうすぐ焼かれるのか?焼かれたらもう生き返るチャンスはないのか?

 僕は小奇麗な格好をさせられ、少し緊張したまま母の運転する車に乗り込むと、自宅からほど近い葬儀場へ向かった。受け付けを済まして中に入った時の記憶は今でも鮮明に覚えている。それはあまりにも日常からはかけ離れた光景で、僕は思わずこわばってしまった。遺影に写っているその顔は確かに僕の知っているコウキだったけれど、それを囲む仰々しい花々も、彼が眠る棺も、大きな祭壇も、全てがこれまで感じた事のない死臭となって僕を威圧した。生者と死者の間には果てしない、圧倒的な隔たりがあるのだと痛感した。棺に納められた彼の顔は人とは思えぬほどに白く、少し開いた口から覗く闇は、恐ろしいほどに深く感じられた。僕は息を殺して泣くのを我慢した。彼の死に悲しみなど感じていなかったのに、僕は涙を堪え切れなかった。彼の死に顔を前にして、僕ははっきりと悟った。死は僕の手に収まりきれるものではないと、死は大ごとなのだと。

 その後、斎場の椅子に座ってじっとしているとコウキのお婆さんがやってきた。目を真っ赤に腫らしながらも、僕にお菓子を持ってきてくれた時と変わらない笑顔で、今日は来てくれてありがとうと言った。

 

 僕は近々用事で九州へ行く。そして、今は駐車場となってしまっているあの木造住宅のあった場所で、僕は心の中だけで祈るだろう。僕は別段、彼に申し訳なさを感じている訳ではない。あの程度のケンカや上下関係というのは子供の世界には付き物なのだ。それでも考えずにはいられない時がある、彼が死なずに今も生きていたら、僕の事を嫌な奴だったと思うだろうかと。あの当時僕が感じた事や思った事はあまりにも混沌としていて、ただ訳も分からず死という現実を突き抜けて、全てを一瞬のうちに過去へと押しやった。そして、彼の死は僕の人格にべっとりと張りついた。そのおかげで、僕の精神はずいぶんと年老いてしまった。そしてこれからも、僕と彼の距離はどんどんと遠ざかってゆく。彼は死した者であるが故に、今も僕とは別の地平へと歩み去っているからだ。それでも、彼が語りかけてくる言葉は日に日に強く、僕の耳に届くようになっている。理由は冒頭に書いている。僕は死に続けている彼の歩みを少しでも緩やかなものにしてやらねばならない。

小説 『羽田で息を吐く』

「見送るのはいつだって僕の方だ」

 
 羽田空港の屋上デッキで、どんよりと曇った空へ吸い込まれるように消えてゆく飛行機を眺めながら僕はそう思った。僕はここに居続ける。どこにも行けやしないのだ。思い返せば、ずっと昔もそう考えていた気がする。たぶんこれからもそうなのだろう。去る悲しみと去られる悲しみ。似て非なるこの悲しみはいつも僕を苦しめる。
  
 
 空港という場所は賑やかなものだ。機内へ荷物を預ける人々の行列は途切れる事がなく、ロビーでは多くのお土産屋が立ち並び、飲食店では皆が時間を気にしつつ素早く食事を取っていた。僕は3階のカフェテラスでコーヒーを飲みながら、ひとつ下の階で搭乗手続きをしている人々を眼下に眺め、彼女の話をおぼろげに聞いていた。コーヒーは濃すぎで胃はムカムカし、店員に飲ませてやりたいもんだと思った。
  ここにいる多くの人たちと違い、僕には行くところも無ければ気にするような時間も無い。僕は彼女を見送るだけなのだ。僕にとってはこの賑やかなお土産屋も飲食店もただ「別れ」を待つ場所に過ぎない。間も無くやってくるその時までの僅かな猶予。彼女は熱心に何かを話しているが、一向に頭に入ってこない。僕の胃は濃いコーヒーによる気持ち悪さに寂しさが混じり合い、どうにかしてくれと叫んでいた。
  
 
 --------そろそろ時間だ。行かなきゃ。
 
 
 コーヒーはまだ少しだけ残っていたが、僕らはそれをいそいそと片付けエスカレーターを降りて保安検査場へ向かう。
  搭乗口に一番近い保安検査場に着くと、あとはもうゲートをくぐるだけとなった。彼女は急にかしこまった様子になり、少し困った顔で僕に別れを告げる。
  
 
 --------さて、じゃあ行ってきます。今回もお世話になりました。また私が来た時はよろしくね。あっちに着いたら連絡するから。 
  
 
 口をついて出るのは、ありきたりな言葉、気をつけて、元気でね、しかし他に言うべき言葉も見当たらず、僕はなぜか照れ笑いをしている。でも他にどんな顔をしたら良いのだろう。なんと言えば良いのだろう。実際はわかっている。別れは辛いと言いたい。行かないでほしいと言いたい。もしくは僕も行きたいと告げたい。でもそんなことは無理だと知っているし、照れくささが邪魔をする。照れ笑いは素直な気持ちの表れなのだ。そして誰もがそれを察してくれる。辛くもあるが、少しだけ優しい時間なのだ。
  彼女は短く息を吐き出し、少しだけ微笑むと、僕に背を向け保安検査場の中へと入ってゆく。姿は見えているが、もう会話をすることはできない。ただただ見守ることしかできない。彼女は荷物をベルトコンベアに載せると、セキュリティゲートをくぐる。無事に荷物を受け取ると、最後にこちらを振り返り、笑顔で僕に手を振った。その後はもうこちらに視線を寄こすこともなかった。
 
 『あぁ、また一人だ。また取り残されてしまった。』賑やかな館内がその寂しさを一層引き立てる。僕はもはやここにある施設に何一つ用事はないし、誰も僕に用事などは無い。後はまたいつもの生活へ戻るだけだ。もう隣には誰もいないのだ。つまりは僕がここでしていることや、考えていることなど今や誰も知りやしないのだ。取り残されるとはこういうことなのだ。
  はやいところ気持ちを切り替えようと、帰りの京急線乗り場まで直行しようとしていたが、名残惜しさが僕を引き止める。この、ふつふつと沸き立つ寂しさを、そして孤独を一刻も早く忘れたいはずなのに、なぜこの場に踏みとどまっていたくなるのだろう。
  僕は自販機でC.C.レモンを買うと、一口だけ飲んでエスカレーターで5階へ向かう。そこは屋上デッキへ続く道が二手に分かれていて、右に行くと横浜方面、左に行くと東京方面の屋上へ出られる。僕はなんとなく左側、東京方面の屋上へ行くことにした。屋上までの通路はソファーが並べられ、やることの無い人たちが思い思いに好きなことをして暇をつぶしていた。
  屋上へ出た途端、飛行機の轟音が僕の耳をつんざく。辺りはもう薄暗く、日が暮れようとしていた。風に乗って漂うガソリンの匂い、甲高い音で唸るエンジン、遠くに眺める東京の夜景、ゲートブリッジは薄暗闇の中に白く輝き、すぐ隣には葛西臨海公園の観覧車が見える。低く立ち込めた雲は僕に作り物の空を連想させ、ドームの中にいるような錯覚を引き起こす。僕は迷路のように複雑に張り巡らされた滑走路を飛行機が次々と飛び立って行く様子を長い時間眺めていた。
 ふと時計を見たとき、辺りはすっかり夜に包まれていた。彼女が乗った飛行機はもうとっくに飛び立った時間であったが、それでも僕はこの場を離れることができないでいた。僕はまたここにいる。作った覚えの無いしがらみが僕をこの場所に押しとどめる。見送るのはいつだって僕なのだ。
  
 
 小学生の頃、窓際の席に座っていた僕は授業中にふと空を見上げると、遥か上空に飛行機が小さく飛んでいるのを見つけた。その時に思ったのは、僕がこうして平日に授業を受けている間にも、どこか遠くへ飛び立つ人、どこか遠くからやってくる人がいるのだということ。それは僕の知らない遠い世界のことのように感じられたし、どこにも行けず、ここにいるしかない僕の生活はなんとつまらないのだろうとも思った。旅への欲求というものは、いつだって抗い難いものなのだ。
 
 そして僕は今もここにいる。品川駅のホームに降り立った僕はもうこれまでの日常に溶け込んでいた。
 
 
 
あとがき
 10月23日金曜日、僕は空港にいました。そのときに屋上で約90分ほどで一気に書き上げました。2200字と言えど遅筆な僕にしてははやいのです。テーマが割と直球なので、それを恥ずかしがって変に言葉をこねくり回したり、ごまかしたりしたくなかったので難しい言葉は使わずに素直に書きました。見送る側は辛いのです。それだけです。
 ちなみに僕がその日空港にいた理由は見送りではありません。
 

過去は今を生きているか

 

 数時間前ことである。深夜にパソコンの画像を整理していると、フォルダの中の懐かしい写真に目がとまった。高校時代の友達との集合写真。熊本へ旅行する際、出発前に撮ったものだ。日付には2010年と記されている。つまり5年も前の写真だ。

 パソコンなので写真の拡大も縮小も自由自在、5年前の自分の顔をまじまじと眺めてみる。その後は友人の顔を見る。とにかく見る。ひたすらに見る。

 そして僕は戦慄する。なぜならその写真に写る僕は完全に「少年」の顔をしていたからだ。僕は「現在」の自分と比較するために慌てて鏡を見る。確かに同じ顔ではあるが、顔はふくよかさを失い骨張っており、もうその顔つきは少年と呼べるものではなかった。毎日鏡を見ていても加齢による顔の変化に気付かないというのに。

 僕はまだ世間的には若いと言われる年齢だ。だからこそ自分の加齢による変化というものを意識したことが無かった。もちろん成人してからは人格という面で多少の落ち着きを得ることはできたが、それでも「老い」を感じたことはなかったし、精神的な下地は10代の頃のままだったのだ。だからこそ外面の変化に衝撃を受けた。そしてそれは「僕は昔のままではないのか?」という疑問を投げかけた。

 人と居るときに過去の写真を見るのは楽しい。なぜなら「あの時はこうだったね、楽しかったね」と過去の記憶を掘り返し、美しい思い出の共有に浸ることができ、尚且つそこに「現在」は介入しないからだ。多くの場合、写真というのは楽しい時間しか切り抜かれていないものであるし(記録写真や趣味としての風景写真は除く)、思い出はいつだって美化される。しかし、たった数時間前、深夜1人でいるときに過去の写真を見ると、それは現在の自分と過去の自分の対比という喪失感を伴う行為となった。

 顔つきの変化から導き出された現在と過去の比較、そして沸き立つ喪失感。ここで僕の言う喪失感というのは「あのとき想像した今の自分はこんなハズではなかった....」というようなものではない。今の自分などこれからどうにでもできる(未来への努力はいつだってできる)。この場合の喪失感というのは、「僕に残された若さはもう少ないのか?」ということである。悲しいことに、これは確実に「老い」を前提とした考え方だ。顔つきの変化は「加齢」を目に見える形で示したのだ。僕は残り少ない青春に、もう子供ではない自分に慄く。

 「今の記憶のままであの時の純粋で無垢な少年時代を送れたら....」とは誰しもが思う。よく「今の記憶を保持したまま小中学生に戻れたら最強!」みたいな話を聞くが、まぁそういうことである。僕は最強になりたいのである。時間は人に成長を与えるが、若さを奪い去ってゆく。この2つは両立できないものであるが、人々はそれを追い求める。

 しかし、心の平穏を掻き乱す喪失感の中、冷静になって考えてみると、その写真に写る若き自分もちゃんと今の自分を形作っているのがわかる。若さは全てに勝る価値あるものだ。だからどうしても過去に対して「喪失」を感じてしまう。だが「失われた」ことばかりに目を向けるのではなく、逆に今は何が「付加されたのか」を考える。するとその過去はしっかりと今を生きていることがわかる。大事なのは、過去の自分も現在の自分も間違いなく同じ「自分」だということ。そこを今一度確認する必要がある。人生は途切れることなく続いているから、過去は過去として独立しているのではなく、少なからず今の自分を構成している要因と考えなければならないのではないか。つい加齢による顔つきの変化に惑わされてしまうので、その点を見失いがちなのだ。すると結局「なんにも変っていない!」という考えに行きつく。確かにいろんな経験を経て、学び、成長はしたが、やはりそれらの下地にあるものは何も変わっていないのだ。それに気がついたとき、僕の感じていた喪失感は少し和らいだ。昔楽しかったことは今でも楽しいし、そしてこれからも楽しいものである気がした。僕はまだ過去と繋がりを断てるほど歳をとってはてはいない、ということだろう。ガキがそのままデカくなっただけだ。人は結婚して家庭を持った時、「子供のままでいる自分」が本当に終わってしまうのだろうかとも考えたが、なんにせよガキあることを真に辞めるその時は来るし、まぁそれまでは楽しみたい。

書くことに理由は必要だ

 

 なぜ書くか、それは数えきれないほどの多くの作家が語っている事柄であり、今更ただの素人であるぼくが語る事でもない。

 ただ最近更新していないこのブログの「つなぎ」の為にその理由を書きたい。本当に酷い理由だが、大して読まれもしないこのブログと言えど長く更新していないと罪悪感も沸いて出てくるものなのだ。もちろんそれは自分に対してである。例えるならば、引きこもりが長く言葉を発していないと自分が誰にも、そして社会にも必要とされていない現状にも関わらず罪悪感を感じてしまうようなものだ。もちろんそれも自分に対しての罪悪感だ。.....そこはかとない焦り、いらだち、それは「繋がりを無為に断ってはならない」というものが根底にあるからに違いない。

 では「なぜ書くか」それは現状「自分が読みたい」からである。歩いていたり、食事していたりお風呂に入っていたりするときにふと頭に浮かぶ様々な考え、これらは自分の脳内にあるからこそなんとなくイメージできるものだが、いざ言葉にするとそれらがまだ言葉としてまとまりを持っておらず形の無いギクシャクしたものであることに気付く。我々は常に物事の断片しか拾い集めていないからだ。それを「言葉」としてしっかりとパッケージングする作業、それが現状自分の「なぜ書くか」の理由である。自分の言葉を自分が読んで、自分を再確認しているわけだ。

 書くという作業は自分と距離をとる作業に他ならない。イメージを次々と言葉として紡ぎだしてゆくと自然と自分の考えがまとまりを帯びて、それそのものが書き手である「自分」を離れ、初めて客観性を持つに至る。それは自分と距離を取り見つめなおす作業である。もちろん「書く」ということの根底に「伝えたい」という願望のようなものがあるのは否めないが、それはこの自分と距離を置いて客観性を持ったイメージのその先にあるものだ。そしてそれがぼくの目指すところでもある。自分がどんな事を考えどんなことを伝えなければならないのか、そういった事もわからないままに物事を伝えることはできない。そのような状態で紡ぎだされた言葉などただの虚像に過ぎない。ここまで言いきったのだから自分に頑張れと言いたい。

 

 (現在短い小説を書いております。終わりかけの状態でしたが、見直しの最中にとある矛盾に気づき大幅に書き直しております。いつ完成するかもわからなくなってしまいましたが近いうちに必ず完成させますのでその際は是非読んでほしいです。)

Flip Out

 

 じっと椅子に座っていると、時計の長針が「カシャッ」と音を立てて右回り。この音は1分毎に鳴るのだろうか。いちいちうるさいのだ。僕は時間を意識してしまう。僕は物凄く退屈していて、できるだけ時間は意識したくなかった。

 そのまま20分くらいが経過しただろうか。また「カシャッ」という音を耳にする。すっかり忘れていたこの音が、再び僕の耳を襲う。なぜこのタイミングで、なにがきっかけで再び僕の耳に届いたのか。

 5分後、僕はこの音が1分おきではなく、30秒おきに鳴っていることに気付いていた。

 

 和室で読書。ちょうど一息ついたころ、僕のスマホは誰かからメールが来ていることを告げている。読んでいたページで右手の人差指を挟み込む。左手はスマホ

 そのとき、キッチンの換気扇が回りっぱなしであることに気がついた。「ゴーッ」という唸りのような低い音。

 さっきまでこんな音は聞こえていなかった。しかし僕が意識した瞬間から換気扇は動き出した。もはや読書どころではない。僕は換気扇を切りに立ち上がる。

 

 意識しなければ音は聞こえない。意識しなければ天井の模様は顔には見えない。意識しなければシャンプー中背後を気にすることはない。意識したその時から全てが歯車のように連なって、「あれこれ」が僕の中に入ってくる。それは時間に対するブレーキ。リアルタイムへの急激な減速。

 没入。そこに気に障る音は無い、「あれこれ」も無い。日常の浸食を阻止。苦難の忘却。架空への期待。ただしそこは竜宮城。いかんせんスピードが速すぎる。現実は、僕らの生活は、今日も人々を呼びとめる。その度、僕たちは立ち止まる。「あれこれ」が人々を「先」へ行きすぎないよう取り締まる。