縦裂FNO

俺はポエマー、すべてイカサマ。

アンダーグラウンド

 

 地下鉄に乗り込むと、僕はすぐに端の座席に腰掛け目を閉じる。車内は空いていた。電車はゆっくりと動き出す。

 2,3駅通過した頃だろうか、ふわりとした風が僕の頬を撫でる。薄く目を開けると、窓が開いていた。そこから見えるのは、ただ真っ暗な景色。トンネルの壁。電車によって押し出された空気が、ゴゴゴ、と低い音を立てている。

 そうか、ここは地下だけど、電車には窓があるのか、と考える。だって地下室には窓がないじゃないか、と。

 勝手な、決めつけられたイメージ。

 再び目を閉じる。こうしていると、電車はどの方向に進んでいるのか全くわからない。電車に窓が無ければ、人は進行方向を知覚できないらしい。これは昔ニュートンで読んだこと。当然、電車は前進しているのだけど、それはアタマが知っている常識、決めつけられたイメージ。カラダは感じていない。

 この電車の行き先は......妄想は捗る。この開け放たれた窓から暖かな光が差し込み、爽やかな風が僕の目を覚まさせて......。

 停車した電車、窓から覗くのは剥きだしのコンクリート、カビっぽい空気。なだれ込む人々。人身事故、振替輸送のアナウンス。

 東京はどこにいても東京だ。地上も、地下も。

 トンネルを抜けると、雪国ではなくて、ただの車庫。

引き延ばされる一瞬

 

 例えばこんな場面、モデルは郊外のマンションに住む27歳女性とする。

 

 良く晴れた土曜日、彼女は少し長めの昼寝から目覚めた。枕元の時計は午後2時30分を指している。彼女は横になったまま数秒間、天井の一点を見つめ、それから短いため息をつくと、ゆっくりと起き上がった。

 コーヒーが飲みたい、ふとそう思った彼女はキッチンへ向かう。お湯を沸かしている間、彼女は壁にもたれかかり、換気扇の下で寝起き特有の虚ろな目をしてタバコを吸っている。そのうちにやかんがグラグラといいだした。お湯が沸くと、彼女はタバコの火を消し、インスタントのコーヒーをさっと淹れ、テーブルまで運んでゆく。彼女は、椅子に腰かけると、マグカップを両手で持って、ゆっくりと口元へ運んだ。

 

 これを映画で表すと淡々と場面が進むはず。時間にして約20秒そこらのシーンである。漫画なら見開きで1ページ程度。ただ、物語であるという非日常を我々が生きる日常に近付けてくれる重要なシーンだ。そこに映し出される彼女の気だるそうな表情、虚ろな目は言葉として語らずとも演技や描かれる表情で伝える事ができる。チラッと映る部屋の様子から彼女のズボラな、または几帳面な性格なども見て取れたりする。(こういった何気ない日常の一こまを切りぬいたシーンは独特の空気感があって、作品の雰囲気を引き立てる上で欠かせない要素となる)何一つ言葉として語られていないのに製作者側から意図された事が視聴者に伝わる、これはなかなか双方にとって気持ちのよいものだし、なにより短い時間でたくさんの情報量を見る者に届けることができる。それと、キャラやキャストとして実際に像を示す事で、見る者に感情移入させやすいという効果もある。キャラやキャストが可愛い、かっこいい、これだけでも作品の魅力は倍増するのだ。(e.g. ~ちゃんは俺の嫁!)大まかではではあるが、これが映像、絵としてのメリットだ。

 ただ、小説の場合は違う。もちろん場面の想像だけで、なにも不十分な点はないとも言えるが、映画や漫画と違って必要以上の事は伝わらない。上記した文だけでは彼女はどんな顔で、どんな部屋に住んでいて、どんな顔で、どんな服で、何を考えて、などわからない事が多すぎる。小説にはそれらを「書く」「書かない」の選択肢がある。

 ある一人の人間が80年生きるとして、第三者がそれをじっと真横で80年間眺め続けるのは極めて退屈だと思う。では、その人の人生で面白かった出来事を時系列順に並べて2時間程度に編集すると、一転してそれはドラマチックなものになる。映画は大まかにはこの手法で作り上げられていて、物語が短時間でジェットコースターのように乱高下するから「面白い」のだとされている。ドラマやアニメなどで言われる「テンポが悪い」という悪口は、要するにこのスピード感が足りていない訳だ。(ただし、語られる事は最小限に留められる)

 映画や漫画の利点が時間を圧縮できることだとすれば、小説の良さは時間を無限に引き延ばせる事だと思う。ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』(僕が大好きな小説です。オススメです)は400ページの長編小説だが、描かれている内容はたった2日間の出来事で、ジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』に至っては全4巻の超大作にして、その物語は朝に始まり、その日の夜に終わる、たった1日の出来事だ。なぜこんなにも短い時間をこれだけの文章量にして書けるのか、それはつまり、その時々一瞬にその人物が何を見て何を考え、何を感じていたのか克明に描かれているということだ。上の例文で言うならば、壁にもたれかかってタバコを吸いながら、彼女は昨日の夜に見たバラエティ番組の下らないギャグを思い返して密かに笑いを堪えているかもしれないし、寝ぼけ眼でミシェル・フーコーの『言葉と物』に於けるエピステーメーの変遷について考えているかもしれない。そしてそれについての考察や個人の意見などを逐一書いているのだ。因みに、これくらい考えている事に落差があっても映画や漫画では伝える事ができない。しかし文章ならば伝える事ができる。それを書く、書かないは別として。しかし「書く」という選択肢がある、それは小説がもつ最大の強みだと思う。

 このように、小説は人物の挙動ひとつひとつに理由を書いたり何をどう思っているのかなど書き連ねていけば、たった一瞬の出来事を無限とも言える時間に引き延ばすことができる。ナイフで切ったステーキを口に運ぶまでの間に、牛の一生を想像するようなものだ。これは心理学用語で「意識の流れ」と言われているもので、人間の意識は漫画のコマのようにひとつひとつの出来事が並んでいるのではなく、思考や観念が動的に流れ、連なっているという考え方だ。ウルフやジョイスはこの概念を文学に取り入れたのだ。

 僕たちはただ街中を歩いているときでも、天気が良ければそれだけで少しだけ幸せを感じられるし、雨ならば憂鬱を感じ、帰り道の夕焼けを美しいと思う。恋をすれば浮き立つ気持ちを、失恋すれば傷ついた心を、子供が生まれた喜びを、人が死ぬ悲しみを....そういった時の、感情が先に立って、うまく言葉にできないその気持ちを、言葉としてパッケージングし、自らに代わって語ってくれているのが小説であって、その言葉は心のもやもやを突き抜けてまっすぐに自分に届いてくれる。そこに漫画や映画などのように言葉の制約は無い。

  このことを考えると、僕は「言葉に救われてるなぁ」と、つくづく思う。言葉は人になにかを伝える際、わたのように柔らかくすることだってできれば、剣山のように硬く尖らせることもできる。言葉は変幻自在で、見ていないものを見ているかのように感じるとることもできるし、人を怒らせることも、笑わせることも、慰めることもできる。変幻自在だから、心のもやもやを言葉として晴らしてくれる。悩める時に、自らを代弁してくれている言葉、物語に出会えれば、それに越した人生のへの「ヒント」はない。登場人物たちは僕たちに代わって悩み、考え、そして「結末」という一種の「答え」を示してくれているのだから。

 僕はいつも悩んでいる。ずっと考えている。だからこれからも言葉を貪り続けようと思う。そしていつか僕の語る言葉が誰かの人生へのヒントとなれば、、そんな日が来れば良いなと思っている。

・季節外れは ・ハードモード ・前日

 

 ・季節外れは

 つい最近まで東京の最高気温は連日35℃を超えていた。もはやこの気温だと季節を楽しむどころか、下手に出歩くと熱中症で生命に危機が及ぶ程の暑さである。しかしここ数日はそれまでの猛暑が嘘のように涼しい。もはや夜や明け方は涼しいどころか寒いくらいで、人々は「夏が終わった!!」と嘆き悲しんでいる。

 僕はこの「季節外れ」の気候は嫌いではない。ここ最近のように、8月なのに10月のように涼しかったり、2月に春のように暖かい日があったり、4月に初夏のような暑さがあったり、こういった季節外れな寒さ、暖かさは全てこれからの季節の「予告」のようなもので、我々に少し先の季節を予感させる。来たる季節に思いをは馳せるのはいつだって楽しいものだ。だが、去る季節を思えば、幾許かの寂しさを覚えるのも事実なのだ。

 

 ・ハードモード

 9月に入り秋が始まると、翌年の2月頃まで気温は下がり続ける。「気温が下がる」そのことを思えば、どことなく気が重くなる。逆に3月頃になると、気温はこれから上昇に転じる一方だと考えれば、どことなく気が楽になる。人間は本能的に寒くなる事を嫌うのだろうか。

 その裏付けとして、ロシアなどの寒い国は国民の寿命が短く、南国の暖かい国は長生きするイメージがある。(ロシアはウォッカを飲みすぎなだけだ!)やはり人間寒いところでは生きてゆけないのか。ただ生まれる場所は選べない。どんな環境だろうが、その場所に生まれた以上、生きてゆかなければならない。ならば、暖かい国に生まれたほうが勝ち組なのか?そうは言えないのではないか?「寒い」ところのほうが生き残るために知恵を使う。知恵を使えば国は発展し栄えるのだ。世界的に見れば若干寒い国のほうが発展している傾向がある。

 

 ・前日

 春や秋は大きな季節への移行期で、とても短いが、とてもすごしやすい気候だ。これから訪れるであろう夏や、冬を想像する楽しみもある。人々は夏になれば暑いと嘆き、冬になれば寒いと嘆くので、修学旅行は行く前が一番楽しいように、季節も結局「前日」が一番楽しいのではないか。

 ただ、花粉症になってからというものの、僕は無条件に春を待ち焦がれることはできなくなった。ならば僕にとって秋こそが最も過ごしやすい季節だろう。でもやはり寒くなるのは嫌なのだ.....

知らないどこかで2

 

 意識を保つことができる限界の状態、眠りに落ちる直前というのは、体の感覚が異常なほど過敏になっている。例えば、知り合いが耳元で何かを語りかけてくる想像をする。すると、その想像上の知り合いは普段の想像の何倍もの現実味を帯びて僕に語りかけてくる。もう会う事が叶わないような人を想像しても、その声はハッキリとした輪郭を帯びていて、息遣いまで聞こえてくる。そんなときは、夢と現実の狭間、クラクラするアタマの中で響くその声に涙して眠りに落ちることになる。

 ある日の深夜、僕は眠りに落ちようとしていた。夢と現実の境界線が曖昧になってゆく中で聞こえてきたのは救急車のサイレン。家の前をけたたましく走り去って、そのサイレンが地平線の遥か先から聞こえてくるように感じる頃、僕は救急車の中で生死をさ迷っている人の事を想像する。激痛に悶え苦しんでいるかもしれない、溢れだしたその血が、少しづつその体を冷やしているのかもしれない。

 果たして本当にそんなことが起きているのだろうか?僕はこんなにも平和に眠ろうとしているのに?

 僕が眠りに落ちる時、その現実を感じとるには僕のアタマはあまりにもボンヤリしすぎている。そして、あまりにも平和すぎている。でも、僕の知らないどこかで、それは確かに起こっている。いつか、自分の人生が終わるその時に、僕はこの日のことを思いだしてみようと思う。

知らないどこかで

 

 午前2時は過ぎていたと思う。真夜中のことだ。僕は部屋の電気を消して間接照明を灯すとベッドに潜りこんだ。スマホに充電器に差し込みアラームをセットする。そしてすぐに読書に取り掛かった。

 2~3ページも読むと、だんだんと目が文字を追う事に慣れてきて、本を読むことに没頭できるようになる。いつもならこのまま約1時間は集中して読書を続けるところだ。しかし、この日は20分もしないうちに集中が切れた。原因はどこからか聞こえてくる異音だった。

 20秒ほどの等間隔で「ココッ」という音が聞こえてくる。しかし音の所在がわからない。左を向くと少しだけ音が大きく聞こえてきて、右を向くと少し離れて聞こえる。そこで音が大きく聞こえるほうに移動してみると音はほとんど聞こえなくなってしまった。さらに部屋の中をすこしづつ移動してみるものの、音の出所は全く掴めず、僕は直接脳内に響いているのではとすら考えてしまった。

 こんな事で読書の時間が削られるのは馬鹿げているので、この異音は無視して読書を続けることにした。

 しかし今度は時計の秒針の音が気になりだした。冷静に考えてみると、1秒毎にカチコチ音が鳴っているという事実がとんでもなく異常な事のように思われた。息や瞬きを意識するととても苦しくなるのと同じことだ。

 相変わらず「ココッ」という音は聞こえてくるし、秒針はうるさいし、加えてなぜか蝉まで鳴き出してきて僕はもはやノイローゼ気味だった。

 

いつも何かが考え事の

 

 「ステム君(僕)って人の話聞いてないよね」って言われることが多い。その通りだ。僕は人の話をあまり聞いていないし聞かない。しかしこれには理由がある。最近気付いたことなのだが、それは他人が僕に話しかけているときが一番考え事に集中できるからだ。僕に向かってペラペラと話している人の顔を見ていると、今書いている小説のネタやどうするか迷っていた予定、くだらない妄想までとことん捗る。相手に失礼だし、良くないことだとわかってはいるが、何分にも無意識の事なのでなかなかやめられず。

 べつに話を全く聞いていないわけではない。100%中20%くらいはちゃんと聞いている。つまり、適度に話を聞いて適度に理解し、適度にリアクションをしなければならないという義務感で脳が活性化、フル稼働しているのだと思う。常に変化してゆく話題、相手の顔、声のトーンとリンクして僕の考え事も次から次へめまぐるしく変化してゆく。この事象、ある一つの物事を注力してガーっとやっていくより、余力を持たせながら並行して複数のことをこなしてゆくほうが効率良かったりするようなものだ。所謂マルチタスクというもの。

 その他、日常生活の中で僕の考え事がはかどっている状況をいくつか思い出してみた。挙げられるのは、

 

・歩いているとき

・お風呂

・食事しているとき

・掃除中

・ドライヤーで髪を乾かしているとき

   etc...

 

 やはり、と言うべきか共通しているのは何かしら体を動かしているということ。結局これらも同じことだろう。何かを並行して行っているときのほうが集中力が隅から隅へ行きわたる。マルチタスクは逆に非効率なんて話も聞くが、これくらい些細なことだと何も非効率なことは無いはず。

 それともう一つ。一時期、僕はよく音楽を聴きながら街を出歩いていたが、音楽がもたらすエモーショナルさに浸っているばかりで、気付くとサッパリ考え事をしない毎日になっていた。たとえしていたとしても、考え事の結論が曲調や歌詞に影響されては困るし、感情のテンションに差が出ると考え事もなにかと変なことになる。もちろん、音楽から引っ張ってこれるアイデアやイメージというのはあるが、それは適度なものにしておいた方が良い。なぜならそれは素の自分とは少し離れたものだからだ。 

映画は男向け?

 

 最近なかなか面白い映画論文を読んだので、分かりやすかった部分をちょっと紹介。その論文で語られている事は「映画は男向けだ!ふざけるな!」というもの。

 

覗き見る対象としての女性

 まず、映画がなぜ楽しいかということを考えると、それは「覗き」という行為だからだ。僕たちは、物語に登場しない第三者の視点として「カメラの映像」を見ている。その第三者は敵に攻撃させることもなければ、味方に話しかけられることもない。完全に無視されている存在なのだ。(ウディ・アレンのような例外もあるが)つまり、映画の中では好みの女性を好きなだけ眺めようが、シャワーシーンで裸を見ようが誰にも咎められることがないわけだ。これはいわば許された「覗き」なのだ。ただこの「覗き」による楽しみは、女性を「見世物」として扱っていることになる。

 

同化

 次に、映画は主人公と自分を同化させて楽しむものという点。映画は主人公が男という作品が圧倒的に多いので、主人公が最終的にヒロインと結ばれる展開があったとすれば、それは、観客(男)もそのヒロインと結ばれるような錯覚を起こすのだ。分かりやすい例を挙げるとすれば、ヒロインが2人以上出てくるハーレムものの作品があったとして、その中で主人公が自分のお気に入りのヒロインと結ばれれば嬉しいだろうし、そうでなければがっかりするはずだ。それは結局自分が主人公と同化しているからだ。(つまり恋愛シュミレーションゲームは登場するすべてのヒロインを手に入れる事ができるわけなので、この「同化」を最大限に利用して、極北に位置するものだ)

 

 この論文が書かれたのは何十年も昔なので、女性向けの作品が山のようにある現在とは事情が異なるけども、「言われてみれば」と感じる要素は多い。だが、結局この論文が言いたいのは第三者というカメラの視点から偏ったセクシュアリティの要素を排除し、もっと開かれたものにしろということだ。ただ、僕個人の意見としては、やはり登場人物に同化して物語に没頭したい。同化できなければ、映画を観る者はただスクリーンやテレビの前に置き去りにされてしまう。誰の視点にも依らず冷静に物語を眺めるという鑑賞の仕方もあるが、僕は没頭したいのだ。映画が非現実である以上、それを楽しみたいのだ。映画の中に、現実世界の居心地の悪さを持ちこんではならない。(たまにはそんな作品も観てみたいけど)