縦裂FNO

日々、見るもの流れゆく物の例え。

猿の畑

 埼玉の東武動物公園、この無駄に広い古びた動物園は割引券でも貰わない限りわざわざ自分から出向くことなどない。なにせ動物園のほかに遊園地、プールを含んだ複合施設とは言え通常料金1700円は余りに高すぎる(上野動物園は600円)。

 そういったことはさて置き、割引券という餌に釣られ出向いたその場所で僕が何を見たのかという話では、単に「猿を見た」ということだけに過ぎない。

    東武動物公園へ出向く前の晩、僕は布団の中でふと明日なにをして過ごすのだろうと考えた。大して動物が好きでもなければ動物園などただ臭い場所だという認識でしかない。それだというのに片道2時間もかけて出向くのだから、それなりに「行く理由」は欲しいと考えた。僕はそういう人間だ。「経験」や「体験」という言葉に毒されているのだろうか、それとも見返りを求めすぎているのだろうか、なにも得ることができない行動を酷く嫌ってしまう(行動を起こせないという点でもはや寝ることすらも嫌いである)(その癖他人から無駄だと言われる己の行動には酷く執着してしまうところもある)。だから目的を決めた、目的というより建前だ、猿を見ることにしたのだ。この事は動物園という言葉から捻りだされる概念がイメージとして具現化した際に、単にそれが猿であったというだけの理由であり、深い意味はない。動物園と言えばライオン?キリン?それが猿だったというだけの理由。

 猿コーナーに行き着く頃には歩き疲れて僕は完全にへばっていた。なんせ敷地が広すぎる。入園してから動物園に着くまで10分以上歩く上に、猿コーナーはと言うとさらに奥深いところにあったからだ。このことからも猿が大して人気のない動物だということが窺える。

 そして肝心の猿である。まず何と言っても良かったのがアジルテナガザルという猿。本当に見ていて飽きなかった。理由は単純で、常に動き続けているからだ。ライオンは寝てばかり、フラミンゴは動かず、ゾウは立っているだけ。しかしアジルテナガザルは両手両足に尻尾までを使って常に活発に動き続けていた。チーターやトラなどネコ科の動物は敷地内の同じルートを円を描くように延々と歩き続けていることがあるが、それとも違う。活発に動きつつもその動きに規則性は無く、全てが偶然に満ちていた。これは波や滝を見ていて飽きない理論と同じだろうか。ルーティンワークのような日々でも完全に同じ日がないのと同じように、その動きには意識的選択と無意識が程よく混在しており、まるで人の生活のようだと思った。

 その後、僕の興味はシロテテナガザルに移る。シロテテナガザルは何かやんごとなき事情からか檻の中には一匹しかおらず、どうにも寂しげな様子であった。この猿はアジルテナガザルと違って大人しく、暫くの間ただじっと棒にぶら下がりこちらを見ていたが、余りに暇を持て余してしまったのか、しゃなりとした滑らかな動きで床に降りると、鉄網で仕切られた隣の檻にいる動物の子供に近づき、そっと手を伸ばす。様子が一変したのはそれからで、この行動が子供の親に見つかったのである。シロテテナガザルはその子供の親に酷く警戒され、激しい鳴き声とともに追い払われた。それに興奮してしまったのか、シロテテナガザルも激しく檻の中を舞い上がり、なにやら叫び声をあげていたが、それに追い討ちを掛けるように檻の中に蝉が乱入、近隣の動物たちによる蝉の大追跡が始まる。その混乱は檻から檻へと飛び火し、もはや猿コーナーはジャングルのようであった。暫くして蝉の混乱がひと段落すると、シロテテナガザルは両手両足を大きく広げ鉄網にしがみ付き、さらに見物人に股間を見せつけるように腰を突きだしたり引っ込めたり、その態度が酷く生意気なものとなった。それは側を通りかかったお婆さんが「まぁ、、下品な猿」と独り言を発するほどである。僕は猿の混乱に満ちた活発さに圧倒されてますます帰りたくなっていた。

 猿を見て感じたのはジョセフ・コンラッドの小説『闇の奥』で描かれる、原始的な恐怖である。猿の行動はどこか意識的でありつつも、底知れぬ闇のような、真っ黒に塗りつぶされた「無意識」の存在を背後にありありと感じさせる。興奮しきった様子でキーキーと叫ぶその様はまさに「The horror!」なのであり、人は皆、クルツのように動物園から消えてゆく。それ程に先祖からのメッセージは強烈なのである。