縦裂FNO

俺はポエマー、すべてイカサマ。

どうせやる気なし

いつの間にか夏が始まっているように、いつの間にか夏は終わっている。季節の境目が曖昧だから、寒かったり暑かったりでノスタルジックな気分になる。いつも今とは違う季節を思い出している。

夏に追いすがるかのようにして白球を追いかけた球児たちの夢は消え、心地よい惰性に人生を乗せて生きる秋。今は通り過ぎたものを思い返すだけの時期。半笑いでやり過ごす憂鬱な季節。

夏が好きなのは木々の緑が豊かだからだとか言っていた。確かに、風でざわつく葉っぱの音も、どこか生き生きとしている。嫌な虫が多いのも、生命力に溢れている証。

良い年にするよ、良いことがあるといいね、みんな幸せだといいね、今年の初め、凍える両手を擦り、息を吐き掛けながら祈った。その祈りは真っ白な画用紙みたいに混じり気が無かったし、世間は多少のこっぱずかしさすら許容してくれる空気もあった。そうして希望だとか願望だとか祈りだとかそんなものが矢の如く日々をつらぬき通して行ったが、もはやその推進力は失われてしまった。長期的な目標など目先のつまらない出来事で覆い隠され、今や遠く霞んでいる。世界中のパンが同じ味であるならば、目の前にある、たった1個のパンだけ齧れば良い。それで世界を知ったも同然。だが現実はどうか。何を良しとして、満足して、納得して、いったい何が妥協だと言うのか。多様性に溺れて死ぬ時代。

缶ジュースを飲み干すために空を見上げなければ今や太陽が世を照らしていることすら思い出さない。惰性で生きる秋だからしょうがない。そして枯渇してゆく生命力、木々は死に、緑は枯れる。太陽は遠く、高く登ってしまった。もはや手の届くところにはない。

仕事帰り、夜風は心が痛むほどに冷たい。夜の東京に灯るビルの赤い光は、寒々とした人の心を暖めることなどない。それは亡霊の睨みか、なにか、そんな悪いもののよう。

猿の畑

 埼玉の東武動物公園、この無駄に広い古びた動物園は割引券でも貰わない限りわざわざ自分から出向くことなどない。なにせ動物園のほかに遊園地、プールを含んだ複合施設とは言え通常料金1700円は余りに高すぎる(上野動物園は600円)。

 そういったことはさて置き、割引券という餌に釣られ出向いたその場所で僕が何を見たのかという話では、単に「猿を見た」ということだけに過ぎない。

    東武動物公園へ出向く前の晩、僕は布団の中でふと明日なにをして過ごすのだろうと考えた。大して動物が好きでもなければ動物園などただ臭い場所だという認識でしかない。それだというのに片道2時間もかけて出向くのだから、それなりに「行く理由」は欲しいと考えた。僕はそういう人間だ。「経験」や「体験」という言葉に毒されているのだろうか、それとも見返りを求めすぎているのだろうか、なにも得ることができない行動を酷く嫌ってしまう(行動を起こせないという点でもはや寝ることすらも嫌いである)(その癖他人から無駄だと言われる己の行動には酷く執着してしまうところもある)。だから目的を決めた、目的というより建前だ、猿を見ることにしたのだ。この事は動物園という言葉から捻りだされる概念がイメージとして具現化した際に、単にそれが猿であったというだけの理由であり、深い意味はない。動物園と言えばライオン?キリン?それが猿だったというだけの理由。

 猿コーナーに行き着く頃には歩き疲れて僕は完全にへばっていた。なんせ敷地が広すぎる。入園してから動物園に着くまで10分以上歩く上に、猿コーナーはと言うとさらに奥深いところにあったからだ。このことからも猿が大して人気のない動物だということが窺える。

 そして肝心の猿である。まず何と言っても良かったのがアジルテナガザルという猿。本当に見ていて飽きなかった。理由は単純で、常に動き続けているからだ。ライオンは寝てばかり、フラミンゴは動かず、ゾウは立っているだけ。しかしアジルテナガザルは両手両足に尻尾までを使って常に活発に動き続けていた。チーターやトラなどネコ科の動物は敷地内の同じルートを円を描くように延々と歩き続けていることがあるが、それとも違う。活発に動きつつもその動きに規則性は無く、全てが偶然に満ちていた。これは波や滝を見ていて飽きない理論と同じだろうか。ルーティンワークのような日々でも完全に同じ日がないのと同じように、その動きには意識的選択と無意識が程よく混在しており、まるで人の生活のようだと思った。

 その後、僕の興味はシロテテナガザルに移る。シロテテナガザルは何かやんごとなき事情からか檻の中には一匹しかおらず、どうにも寂しげな様子であった。この猿はアジルテナガザルと違って大人しく、暫くの間ただじっと棒にぶら下がりこちらを見ていたが、余りに暇を持て余してしまったのか、しゃなりとした滑らかな動きで床に降りると、鉄網で仕切られた隣の檻にいる動物の子供に近づき、そっと手を伸ばす。様子が一変したのはそれからで、この行動が子供の親に見つかったのである。シロテテナガザルはその子供の親に酷く警戒され、激しい鳴き声とともに追い払われた。それに興奮してしまったのか、シロテテナガザルも激しく檻の中を舞い上がり、なにやら叫び声をあげていたが、それに追い討ちを掛けるように檻の中に蝉が乱入、近隣の動物たちによる蝉の大追跡が始まる。その混乱は檻から檻へと飛び火し、もはや猿コーナーはジャングルのようであった。暫くして蝉の混乱がひと段落すると、シロテテナガザルは両手両足を大きく広げ鉄網にしがみ付き、さらに見物人に股間を見せつけるように腰を突きだしたり引っ込めたり、その態度が酷く生意気なものとなった。それは側を通りかかったお婆さんが「まぁ、、下品な猿」と独り言を発するほどである。僕は猿の混乱に満ちた活発さに圧倒されてますます帰りたくなっていた。

 猿を見て感じたのはジョセフ・コンラッドの小説『闇の奥』で描かれる、原始的な恐怖である。猿の行動はどこか意識的でありつつも、底知れぬ闇のような、真っ黒に塗りつぶされた「無意識」の存在を背後にありありと感じさせる。興奮しきった様子でキーキーと叫ぶその様はまさに「The horror!」なのであり、人は皆、クルツのように動物園から消えてゆく。それ程に先祖からのメッセージは強烈なのである。

白球を追いかけ、ウナギを頬張る。

 「夏が来たな」と思ったのも束の間で、あとひと月もしないうち9月になり秋が顔を覗かせる。秋が来ればあっという間にクリスマスが来て、年末を迎えてまた年を取る。今年は何をしたっけ?今年も何もできなかったんだっけ?そんなことを今のうちから考えてしまう。だが、まだ夏は続くのだ。甲子園すら始まっていないじゃないか。

 目覚めと共に耳をつんざくのはけたたましい蝉の声、あくびをしながら付けるテレビからはブラスバンドの気怠い応援、ピッチャーの真剣な眼差し、バッターの横顔、チアリーダーの嘘くさい笑顔、そして金属バットが球を弾き、カキーンと響く気持ちの良い音。白球は空高く舞い上がり、入道雲を突き破るかの如くだ。熱いぜ、これが青春なのか、嬉し涙も、悔し涙も、僕らの人生にそんなものはあったのだろうかって。白球を追いかける?僕はなにも追いかけたことがない。部屋のクーラーはゴーっと音を立てる。これもまた心地よい夏の音。それは点火スイッチの押された火葬場の、遺体を焼く音と似ている。そしてまた眠くなり、目を閉じる。

 散らかったデスク、やかましい電話の声。無駄に強くEnterキーを叩き、一息ついてニュースを見る。トップページには甲子園の速報。しかしもう甲子園なんぞに興味はない。学生の頃みたいに、あんな自堕落が無ければこんなスポーツ見やしないのだ。イライラが募り、それを落ち着けるためにアタマの中でクラシックを流す。J.Sバッハの平均律クラヴィーア。お世話になっております!承知いたしました!とんでもございません!申し訳ございません!失礼いたします!そんな時でも平均律クラヴィーア。エレガントなオフィスを脳内で演出。早く帰りたいの以外の感情が消える。

 ここ最近、短いスパンで2度もウナギを食べた。1度目は浅草橋のお店。奮発して3500円の上を頼む。僕はカウンター席から寡黙な主人がウナギを捌くのを見る。ウナギはスライスされてもなお、ウネウネとしていた。気持ち悪かった。しかし出てきたものは当然美味しそうだったし、食欲をそそるものだった。

「頂きます!!」

 ものの5分で食べ終わる。え?これで終わり?これただの焼き魚だよね?確かにおいしかったけど40分待って5分で食べ終わって3500円?お店を出るころは損をしたような気分だった。何かが満たされることなく、財布だけが軽くなった気分だった。

 父の里帰りについてゆく。九州の宮崎。やることねぇな、そう考えていたとき「ウナギ食べたくないか?」と父の声。きたぜ、2度目のウナギが到来。

「うなぎ定食ください」

そう言って10分もしないうちに料理が運ばれてきた。早い。さっそくタレをたくさんつけて一口齧る。甘い。そして柔らかい。辛目の味付けでバリッと焼く関東風とは真逆だ。これはこれでおいしい。前回の反省を生かして10分かけて食べる。満足だ、なぜならこれは奢りだからだ。

 

17.6.11

 

1.
 近所に建っていた雑居ビルが取り壊されたのはつい三日前のことで、空き地をじっと眺めていると、同じく近隣住民であるフミさんがどこからともなくあらわれ私に言う。
「いやぁ、空が広くなったわねぇ。とっても清々しい気分だわぁ。」
「ええ、まぁ、ホントですねぇ。」
 日曜日の朝、時刻は七時を少し回ったころ、六月、初夏。朝はまだ肌寒いが、ビルが取り壊されたということでいつもより少しだけ広くなった空は青と白のコントラストを強く描き、灼熱の季節がもう目の前に控えていることを示す。
「私はね、もうここはこのまま空き地のままでいいと思うのよ。でもまぁそれは難しいだろうし、ああ!そうだ!駐車場が良いかしらね、うん、駐車場がいいわ。とにかく背の高い建物はいやよ。ところでウミちゃん随分と朝早くから出掛け?お仕事?」
「いやぁ、その逆というか、今帰りで、はは….。」
「ウミちゃんも去年から社会人だし、いろいろ付き合いがあるのはわかるけどあんまり朝帰りは良くないんじゃないの?余計な御世話かもしれないけど。」
 出た、謎の方向転換。今はビルの話をしていたんじゃないの?だからおばさんはいやなんだ、だから女はいやなんだ。昨晩のお酒が残っているままの頭で、親でもなんでもないおばさんの説教を聞くのは御免こうむりたい。ドロン、さようなら。
「私、この後も家で仕事あるので。フミさんさよなら。ではまた。」
 私は再び自宅の方向へと歩き出す。そして先ほどの空き地は、一つだけピースの足りていないパズルのような、少しのもどかしさを私に引き起こした。空き地は町の欠損、けれど、それは暫くの後に細胞が分裂するかのようにして癒える。そうして何かまた別の建物が生まれる。こうやって街は書き換えられてゆく。人の営みは街へと伝わり、地図を塗り替えてゆく。変わるもの、変わらないもの、変えられないもの。私が昼に目を覚ます頃、きっとフミさんはまたも庭でゴミを燃やし、近隣住民から声にならぬ多数の苦情を寄せ集めているだろう。これがこの街の変わらぬ日曜日の風景。それもまたいつか終わるのだけど。
2.
 自宅にたどり着いたのは朝七時一五分。ミネラルウォーターを一気に飲み干して、徹夜開けの乾いた身体を潤す。眠気はまだ来ない。その後自室に戻り、デスクに腰掛け仕事に掛かる。古びた磨りガラスからは澄み切った朝日がまどろみを伴って部屋へと差し込む。外からは鳥の声、車の走行音。今ここにあるのは「私とは関係なく」爽やかな朝。きっとそれは「世界」の為の爽やかな朝。誰かの為ではない、誰かの為の世界などこの世にはないのだ、きっとそうだ。私はただ夏が少しだけ待ち遠しいだけ。もうすぐ蝉の声もここに加わるのだろう。
「ウミ?帰ってきてるの?あんたまたこんな時間になって帰ってきて…その上仕事?もうちょっと考えて生活しなさいよね。」
 母はドアから顔だけを覗のぞかせると、呆れたトーンで私に話す。私はうーんと唸るような覚束ない返事を返し、椅子からずり落ちるようにして天井を仰ぐ。ねぇ、お母さん、コーヒー飲みたい。
 私は母の淹れてくれたコーヒーを飲みながら仕事を続ける。日曜日も仕事?惰性、これは惰性だ。平日誰よりも速い速度で仕事をこなすのも、土曜日に友達と朝まで飲むのも、日曜の朝に仕事をするのも惰性。仕事に於いて私の評判は良い。だからといって今の仕事にやり甲斐を感じたことも楽しさを感じたこともない。すべて私の惰性の範囲でこなせる事柄だから、やるべき事だけをささっと終わらせているだけ。人によってはやるべき事をやらず、ずっと先延ばしにしている人もいる。しかしそれも惰性なのではないか、要は同じこと、逃げ方が違うだけ。
 時刻は九時五十七分。お腹の底から煙が立ち昇るように、そして窓からは眠気が放射状に白っぽい靄となって押し寄せてくる。私はワンデーのコンタクトをべりっと剥がしゴミ箱へ投げ入れ、倒れこむようにしてベッドへ身を投げた。
3.
 浴槽の中で目を閉じて耳をふさぐ。まっくら。そして聞こえる心臓の鼓動。あ、やっぱり私は生きている、そう思えるのはこの時間だけ。この鼓動だけが生きている証拠。すべての根源、理由。裸になって、頭のてっぺんまでお湯に浸かって、目を閉じて耳を塞いで、プリミティブな命の音を聞く。やっぱり落ちつくねぇ、私は声に出して言う。しかしそれはブクブクと泡になって言葉にならない。ここは言葉すらも通じない。だんだんと息が苦しくなる。比例するようにして心臓の鼓動は激しさを増す。ドク、ドク、ドク。それはだんだんとうるさくなって、強く高まる。この音はどこから聞こえてくるのだろうか。耳で聞いているわけではないけれど、それは聞こえる。ドク、ドク、ドク。止めてやろうか?この音を。そうしなければ、完璧な静寂は訪れない。それはいつの日か、私の最後の可能性。
4.
 時刻は十五時を回った。テレビにはゴダールの映画、延々と続く交通渋滞が長回しによって映し出されている。

『ウィークエンド』

 そうだ、この映画のタイトルは『ウィークエンド』。シネマスコープによる濃い色彩、突如流れ始め、突如途切れる音楽。哲学、薬物、革命、ルイスキャロル、殺人、カニバリズム。それは混沌。道徳は吹き飛び、善悪は己の判断にて。ニーチェ善悪の彼岸?これぞあるべき姿?奴隷道徳は消え去って、原始の世界をもう一度。ダメだ、眠すぎてもう意識が持たない。マルクス...マルクス....。
5.
「ウミ?おきなさいよ。ご飯だから。ウミ?」
 母の声で目がさめる。ああ、やはり目覚めは母の声に限る。母の声がしたから、私はこの世に生まれたのであって、いつの時も目覚めは母の呼ぶ声が良い。そうして毎日私はこの世に生を享ける。
「今行くよ。」
 私は目をこすりながらリビングへと向かう。時刻は十九時三十分。父が料理の乗った食器をテーブルへと運んでいる。テレビではお笑い芸人が下らない話を下らない視聴者に向けて話していたので私も下らない態度でチャンネルを変える。BSのニュースは北朝鮮がミサイルを発射したと告げる、大洗の原子力研究所で数名が被ばくしたと告げる、日本共産党中央委員会共謀罪はメールや通話なんかも監視されるのだと告げる、巨人が十三連敗したと告げる、韓国のサッカーチームが試合中に暴動を起こしたと告げる、明日は三十度を超え、暑くなるのだと告げる。私はそれらをぼんやりとした靄のようなイメージとしてしか捉えられない。食べ物を咀嚼することもイメージの精度下げる。ああ、いつだってささみのフライは美味しい。でもそれ以上にこの日曜日の終わりという事実だけが、私の直面している深刻な問題であり、それ以外の出来事は何事も世界を突き動かす事はできない。母はミニバレーの参加人数が減っていると嘆き、父はレクサスのCMを見て欲しいと呟く。私はコーンスープを啜り、なんて美味しいのだろうと思う。小さな幸せ。しかしそれも明日からの憂鬱によりすぐに消し去られる。料理は全滅。ミサイル飛んでくるかもしれないけど、私は明日仕事へ行くだろう、被ばくの症状に怯える人たちの恐怖は想像もつかず、スポーツなんてどうだっていい。私の中で世界など消化できない。テレビは何かが変わることへの不安を告げ、私は何も変わらぬことへの不安を抱える。今できることは残り少ない休日、それを貪るようにして喰い尽し、ただ未来へと思いを馳せることだけ。
6.
 時刻は二十二時四十三分。時間は沈黙のままに過ぎ去る。私はコンビニまで出かけビールを買うと、それを片手に近所の公園へと向かった。ベンチから見上げる星々はちかちかと瞬き遠い過去の光を地球に届けている。明日に向かいつつある今この時と、過去の瞬きが交差して、その境目がアルコールによって曖昧に溶ける。風が吹いて、静かな街に電車の音が轟く。願わくば、明日は私の感じたことのない風が吹けばいい。

生物であるから歩く

先日のことである。駅の改札を出た僕は、すぐ目の前にある横断歩道を渡ろうと駆け出した。普段は人通りの多い横断歩道であるけれども、自分が渡り始めた時点で既に歩行者は居らず、青信号は間もなく点滅へと変化しそうな様子であった。

その途中の事である。

横断歩道の中腹で、僕はとある中年の女性を追い越した。彼女は右足を引きずりながら少しずつ、少しずつその横断歩道を渡ろうとしていた。その歩幅は僅か十数センチといったところで、既に信号機の点滅が開始された横断歩道をその時間内に渡りきるのは到底無理な事に思われた。「大丈夫だろうか」そう思った僕は、横断歩道を渡り終えた後も彼女の姿を目で追い続けた。直後、信号は赤に変わるが、案の定彼女はあと4,5メートルの距離を残して未だ横断歩道を渡り続けていた。信号待ちをしていた車はゆっくりと前進を始める。

「クラクションを鳴らされるんじゃないだろうか、そうしたら彼女は心を痛めるのではないか」

僕は彼女の心情を思うと少し辛くなった。

しかし車はクラクションを鳴らす事などなく、彼女が横断歩道を渡りきるのを待つ。

僕は安心して彼女から目を離し、そもそもの目的地である銀行へと向かった。

銀行で手続きを終えた僕は帰路につく。すると先ほどの女性が僕の前を歩いていた。相変わらずゆっくりと、そして少しずつ前進していた。僕が手続きに要した時間は約5分程度、それにも関わらず彼女は普通の人が僅か数十秒で歩ききってしまう距離を未だ悪戦苦闘しつつもがいていた。そのペースは先ほどよりも明らかに落ちている。それでも彼女は右足を引きずりながらどこかの目的地へと歩く。

 

生物が生物たり得る意味、それを考えた。

僕が彼女の立場だったらどうだろうか、きっと歩かないだろう。動かない足に対する引け目、苛立ち、他人の視線、人さまにかける迷惑…

きっと彼女も、最初はそうだったのではないかと考えた。しかしそんな事は知らない、当の本人しかわからない。ただの徘徊癖かもしれないし、本当は歩きたくもないのに自宅に居場所がなかったり、一人暮らしで歩かざるを得ないのかもしれない。

 

しかしどうであろうと、人は、動物は、虫は、生物である以上、歩かねばならないのである。それはもはや宿命とも言える。全ての景色も、全ての友情も、全ての感情も、自ら歩いたが故のものだ。

 

自己完結の果て

 これは今朝がた、某SNSでも書いたことなのだが、通勤中に「仕事に行きたくない」「このままどこか行きたい」と感じるのは誰にでも良くあることで、皆思っていることである。ただ、それはなかなか実行に移せるものではなく、人々は群れをなして仕方なく職場へと向かわざるを得ない。

 

 ただここでひとつ気をつけておきたいのは、そういった気分を指して「これが人生だ」と思っては駄目なのではないかということ。なんとなくそれを許容してしまったら己の人生が労働に染まってしまうのではないか、そんな不安と懸念が僕にはある。

 

 悪意だけを真実とした行い、たとえば通行人を無差別に切りつける通り魔、その犯人が心の中に潜め隠しているものは「仕事に行きたくない」「このままどこかへ行きたい」という気持ちとなんら変わりない気がする。対話から孤立し、自分自身だけが世界のすべてとなったとき、犯行は行われるだろう。そして人は死ぬ、僕は仕事をサボる。これは凄まじい程に高純度な真実。なぜなら自分だけの真実であるからだ。他人が向ける視線によって歪む秩序など何ひとつ無い。全ては己の中だけで完結する。

 

 お金とは労働の対価、いや、我慢の対価。友達を、家族を、知り合いを安心させる為の我慢、その対価。だがこれは自分が決めた価値ではない。

 

 ああ、早く今日が終われと祈りの姿勢でデスクに腰掛け、待ちに待った束の間の休息は、再び抱え込む不安への準備期間となり、明日もまた、眩しい朝日を憎悪するのである。そんな僕はニートよりも無職よりも死刑囚よりも、世界の誰よりも不真面目である。

つまらない日々

日々はつまらないというのに、瞬く間に過ぎてゆく。まるで同じ景色が続く長いトンネルの中を物凄い速度で走りぬけてゆくかのようだ。では、つまらない日々を突き動かすのはなにか、トンネルの崩落をもたらすものはなんだ、出口の光は本物か?

そもそも日々とはなんだ。単調な何かのようなのに、その流れは強烈で僕らをいとも簡単に飲みこんでゆく。やっとの思いで見つけたその景色もその場所も、心地よい昼寝にでもさらわれようものなら、目が覚めたときそこは既に地平線の果てに流れ去っている。土曜日、日曜日という束の間の安息だけではこの流れに逆走し、爪を立てそこに踏みとどまることや、痕跡を残したりはできない。そして人は生きることへの焦燥を失い、ふとしたときに蘇る遠い日に消えた感覚だけを懐かしみ、それは美しかったのだと噛みしめる。

つまらない日々に抗えるというのなら、僕はその足掛かりを宝物のように思い、かき集めてゆくだろう。今それができているのかはわからない、だが常にその瞬間の為だけに靴底を減らしてゆかねばならないと、その覚悟に迷いなど無いのだと、血が出るほどに唇を強く噛みそれを証明する必要がある。しかしその足掛かりとはなんなのだろう、知らない誰かの写真だろうか、ふと見上げた高層ビルの灯りだろうか、電車の窓から覗く景色か、一斉に飛び立ってゆく鳥たちか、ドストエフスキーの小説か、プルーストの記憶か、ニーチェの諦めか、グールドの奏でるゴールドベルクの旋律か。

朝が来れば昼になり、そして夜が終わればまた朝が来る。変わるのは気温と明るさと、他になんだ?それだというのに、日付はカチッと音をたてて切り替わり、1が2になり、3になる。地続きであるはずの日々は数字を身に纏うことで人々に同じ世界が続く非情を叩きつける。

これが人生だ、と嘆くのは間違っている。過ぎ去る単調な日々の中で歳を重ねてゆくことは、そんな簡単に、ただのため息として片づけて良いものではない。月曜日が憂鬱なのも、水曜日が気だるいのも、それは人生を左右する重大な問題なのだから、その嘆きはトンネルが一向に終わる気配を見せていない証拠なのだから。

桜の季節に、知らない人々の中で知らない場所の知らないどこかを踏みしめるかのような気持ちは、絶対に手に入れられないものを掴める予感の中だけに存在する。あくまでそれは予感だけなのであって、気配すらも遠く、実態は感じられもしないのだけど、遥か先のいつか、そのとき何をすべきか、その大きな覚悟と決意と手繰り寄せるべきものの答えがある、いや、そうであって欲しい。だったら今日の寝る前に、少しだけ今自分がトンネルのどこにいるのかだけを考えてみたい。