縦裂FNO

日々、見るもの流れゆく物の例え。

生物であるから歩く

先日のことである。駅の改札を出た僕は、すぐ目の前にある横断歩道を渡ろうと駆け出した。普段は人通りの多い横断歩道であるけれども、自分が渡り始めた時点で既に歩行者は居らず、青信号は間もなく点滅へと変化しそうな様子であった。

その途中の事である。

横断歩道の中腹で、僕はとある中年の女性を追い越した。彼女は右足を引きずりながら少しずつ、少しずつその横断歩道を渡ろうとしていた。その歩幅は僅か十数センチといったところで、既に信号機の点滅が開始された横断歩道をその時間内に渡りきるのは到底無理な事に思われた。「大丈夫だろうか」そう思った僕は、横断歩道を渡り終えた後も彼女の姿を目で追い続けた。直後、信号は赤に変わるが、案の定彼女はあと4,5メートルの距離を残して未だ横断歩道を渡り続けていた。信号待ちをしていた車はゆっくりと前進を始める。

「クラクションを鳴らされるんじゃないだろうか、そうしたら彼女は心を痛めるのではないか」

僕は彼女の心情を思うと少し辛くなった。

しかし車はクラクションを鳴らす事などなく、彼女が横断歩道を渡りきるのを待つ。

僕は安心して彼女から目を離し、そもそもの目的地である銀行へと向かった。

銀行で手続きを終えた僕は帰路につく。すると先ほどの女性が僕の前を歩いていた。相変わらずゆっくりと、そして少しずつ前進していた。僕が手続きに要した時間は約5分程度、それにも関わらず彼女は普通の人が僅か数十秒で歩ききってしまう距離を未だ悪戦苦闘しつつもがいていた。そのペースは先ほどよりも明らかに落ちている。それでも彼女は右足を引きずりながらどこかの目的地へと歩く。

 

生物が生物たり得る意味、それを考えた。

僕が彼女の立場だったらどうだろうか、きっと歩かないだろう。動かない足に対する引け目、苛立ち、他人の視線、人さまにかける迷惑…

きっと彼女も、最初はそうだったのではないかと考えた。しかしそんな事は知らない、当の本人しかわからない。ただの徘徊癖かもしれないし、本当は歩きたくもないのに自宅に居場所がなかったり、一人暮らしで歩かざるを得ないのかもしれない。

 

しかしどうであろうと、人は、動物は、虫は、生物である以上、歩かねばならないのである。それはもはや宿命とも言える。全ての景色も、全ての友情も、全ての感情も、自ら歩いたが故のものだ。