縦裂FNO

日々、見るもの流れゆく物の例え。

つまらない日々

日々はつまらないというのに、瞬く間に過ぎてゆく。まるで同じ景色が続く長いトンネルの中を物凄い速度で走りぬけてゆくかのようだ。では、つまらない日々を突き動かすのはなにか、トンネルの崩落をもたらすものはなんだ、出口の光は本物か?

そもそも日々とはなんだ。単調な何かのようなのに、その流れは強烈で僕らをいとも簡単に飲みこんでゆく。やっとの思いで見つけたその景色もその場所も、心地よい昼寝にでもさらわれようものなら、目が覚めたときそこは既に地平線の果てに流れ去っている。土曜日、日曜日という束の間の安息だけではこの流れに逆走し、爪を立てそこに踏みとどまることや、痕跡を残したりはできない。そして人は生きることへの焦燥を失い、ふとしたときに蘇る遠い日に消えた感覚だけを懐かしみ、それは美しかったのだと噛みしめる。

つまらない日々に抗えるというのなら、僕はその足掛かりを宝物のように思い、かき集めてゆくだろう。今それができているのかはわからない、だが常にその瞬間の為だけに靴底を減らしてゆかねばならないと、その覚悟に迷いなど無いのだと、血が出るほどに唇を強く噛みそれを証明する必要がある。しかしその足掛かりとはなんなのだろう、知らない誰かの写真だろうか、ふと見上げた高層ビルの灯りだろうか、電車の窓から覗く景色か、一斉に飛び立ってゆく鳥たちか、ドストエフスキーの小説か、プルーストの記憶か、ニーチェの諦めか、グールドの奏でるゴールドベルクの旋律か。

朝が来れば昼になり、そして夜が終わればまた朝が来る。変わるのは気温と明るさと、他になんだ?それだというのに、日付はカチッと音をたてて切り替わり、1が2になり、3になる。地続きであるはずの日々は数字を身に纏うことで人々に同じ世界が続く非情を叩きつける。

これが人生だ、と嘆くのは間違っている。過ぎ去る単調な日々の中で歳を重ねてゆくことは、そんな簡単に、ただのため息として片づけて良いものではない。月曜日が憂鬱なのも、水曜日が気だるいのも、それは人生を左右する重大な問題なのだから、その嘆きはトンネルが一向に終わる気配を見せていない証拠なのだから。

桜の季節に、知らない人々の中で知らない場所の知らないどこかを踏みしめるかのような気持ちは、絶対に手に入れられないものを掴める予感の中だけに存在する。あくまでそれは予感だけなのであって、気配すらも遠く、実態は感じられもしないのだけど、遥か先のいつか、そのとき何をすべきか、その大きな覚悟と決意と手繰り寄せるべきものの答えがある、いや、そうであって欲しい。だったら今日の寝る前に、少しだけ今自分がトンネルのどこにいるのかだけを考えてみたい。