縦裂FNO

日々、見るもの流れゆく物の例え。

引き延ばされる一瞬

 

 例えばこんな場面、モデルは郊外のマンションに住む27歳女性とする。

 

 良く晴れた土曜日、彼女は少し長めの昼寝から目覚めた。枕元の時計は午後2時30分を指している。彼女は横になったまま数秒間、天井の一点を見つめ、それから短いため息をつくと、ゆっくりと起き上がった。

 コーヒーが飲みたい、ふとそう思った彼女はキッチンへ向かう。お湯を沸かしている間、彼女は壁にもたれかかり、換気扇の下で寝起き特有の虚ろな目をしてタバコを吸っている。そのうちにやかんがグラグラといいだした。お湯が沸くと、彼女はタバコの火を消し、インスタントのコーヒーをさっと淹れ、テーブルまで運んでゆく。彼女は、椅子に腰かけると、マグカップを両手で持って、ゆっくりと口元へ運んだ。

 

 これを映画で表すと淡々と場面が進むはず。時間にして約20秒そこらのシーンである。漫画なら見開きで1ページ程度。ただ、物語であるという非日常を我々が生きる日常に近付けてくれる重要なシーンだ。そこに映し出される彼女の気だるそうな表情、虚ろな目は言葉として語らずとも演技や描かれる表情で伝える事ができる。チラッと映る部屋の様子から彼女のズボラな、または几帳面な性格なども見て取れたりする。(こういった何気ない日常の一こまを切りぬいたシーンは独特の空気感があって、作品の雰囲気を引き立てる上で欠かせない要素となる)何一つ言葉として語られていないのに製作者側から意図された事が視聴者に伝わる、これはなかなか双方にとって気持ちのよいものだし、なにより短い時間でたくさんの情報量を見る者に届けることができる。それと、キャラやキャストとして実際に像を示す事で、見る者に感情移入させやすいという効果もある。キャラやキャストが可愛い、かっこいい、これだけでも作品の魅力は倍増するのだ。(e.g. ~ちゃんは俺の嫁!)大まかではではあるが、これが映像、絵としてのメリットだ。

 ただ、小説の場合は違う。もちろん場面の想像だけで、なにも不十分な点はないとも言えるが、映画や漫画と違って必要以上の事は伝わらない。上記した文だけでは彼女はどんな顔で、どんな部屋に住んでいて、どんな顔で、どんな服で、何を考えて、などわからない事が多すぎる。小説にはそれらを「書く」「書かない」の選択肢がある。

 ある一人の人間が80年生きるとして、第三者がそれをじっと真横で80年間眺め続けるのは極めて退屈だと思う。では、その人の人生で面白かった出来事を時系列順に並べて2時間程度に編集すると、一転してそれはドラマチックなものになる。映画は大まかにはこの手法で作り上げられていて、物語が短時間でジェットコースターのように乱高下するから「面白い」のだとされている。ドラマやアニメなどで言われる「テンポが悪い」という悪口は、要するにこのスピード感が足りていない訳だ。(ただし、語られる事は最小限に留められる)

 映画や漫画の利点が時間を圧縮できることだとすれば、小説の良さは時間を無限に引き延ばせる事だと思う。ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』(僕が大好きな小説です。オススメです)は400ページの長編小説だが、描かれている内容はたった2日間の出来事で、ジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』に至っては全4巻の超大作にして、その物語は朝に始まり、その日の夜に終わる、たった1日の出来事だ。なぜこんなにも短い時間をこれだけの文章量にして書けるのか、それはつまり、その時々一瞬にその人物が何を見て何を考え、何を感じていたのか克明に描かれているということだ。上の例文で言うならば、壁にもたれかかってタバコを吸いながら、彼女は昨日の夜に見たバラエティ番組の下らないギャグを思い返して密かに笑いを堪えているかもしれないし、寝ぼけ眼でミシェル・フーコーの『言葉と物』に於けるエピステーメーの変遷について考えているかもしれない。そしてそれについての考察や個人の意見などを逐一書いているのだ。因みに、これくらい考えている事に落差があっても映画や漫画では伝える事ができない。しかし文章ならば伝える事ができる。それを書く、書かないは別として。しかし「書く」という選択肢がある、それは小説がもつ最大の強みだと思う。

 このように、小説は人物の挙動ひとつひとつに理由を書いたり何をどう思っているのかなど書き連ねていけば、たった一瞬の出来事を無限とも言える時間に引き延ばすことができる。ナイフで切ったステーキを口に運ぶまでの間に、牛の一生を想像するようなものだ。これは心理学用語で「意識の流れ」と言われているもので、人間の意識は漫画のコマのようにひとつひとつの出来事が並んでいるのではなく、思考や観念が動的に流れ、連なっているという考え方だ。ウルフやジョイスはこの概念を文学に取り入れたのだ。

 僕たちはただ街中を歩いているときでも、天気が良ければそれだけで少しだけ幸せを感じられるし、雨ならば憂鬱を感じ、帰り道の夕焼けを美しいと思う。恋をすれば浮き立つ気持ちを、失恋すれば傷ついた心を、子供が生まれた喜びを、人が死ぬ悲しみを....そういった時の、感情が先に立って、うまく言葉にできないその気持ちを、言葉としてパッケージングし、自らに代わって語ってくれているのが小説であって、その言葉は心のもやもやを突き抜けてまっすぐに自分に届いてくれる。そこに漫画や映画などのように言葉の制約は無い。

  このことを考えると、僕は「言葉に救われてるなぁ」と、つくづく思う。言葉は人になにかを伝える際、わたのように柔らかくすることだってできれば、剣山のように硬く尖らせることもできる。言葉は変幻自在で、見ていないものを見ているかのように感じるとることもできるし、人を怒らせることも、笑わせることも、慰めることもできる。変幻自在だから、心のもやもやを言葉として晴らしてくれる。悩める時に、自らを代弁してくれている言葉、物語に出会えれば、それに越した人生のへの「ヒント」はない。登場人物たちは僕たちに代わって悩み、考え、そして「結末」という一種の「答え」を示してくれているのだから。

 僕はいつも悩んでいる。ずっと考えている。だからこれからも言葉を貪り続けようと思う。そしていつか僕の語る言葉が誰かの人生へのヒントとなれば、、そんな日が来れば良いなと思っている。