縦裂FNO

日々、見るもの流れゆく物の例え。

見てるようで見ていない

東京の高円寺の商店街を歩いていると建物が取り壊されていた。

「あれ、ここになにがあったかな」と考える。何度も通っているはずの道。しかしそこにあったはずのものを思い出すことはできない。

 

何度目だろう?と思う。更地になっている場所を見るとそこに何があったのか、いつも思い出せない。

 

結局僕は街の事を見ているつもりになっているだけで何も見ていないのだ。このことがある度に僕は取り返しのつかない気持ちになる。そこになにがあったのか、もう二度と見ることはできないし、なにが存在していたかを知ることもできないからだ(帰宅後にはそのことなど忘れている...)。

 

つまりそれは、たった今!今、知ることが重要なのであって、今でなければもうその先はない。そこに何があったのか当然覚えている人はいるだろう。だが僕は覚えていないのだ。僕にとってその街の一角はもう闇に葬り去られてしまった。二度と光を見ることはない。僕にとっての、あまりにも個人的な「死」がそこにある。