縦裂FNO

VS生活。俺はポエマー

これはお前の分

最近見た映画、デヴィッド・フィンチャー監督の『ファイトクラブ』。

Amazonプライムビデオにあったので3日で2回観たり、、

これがまた自分が常々思う事や感じることと見事に合致している作品というか。。

「俺が言いたいのはこれだ!」という作品に出会えるのはやはり気持ちがよい。後ろで「そうだそうだ!」とヤジを飛ばす無責任な国会議員のような気分である。

内容をざっくり書くと、エドワード・ノートンとブラッド・ピッド演じる主人公たちがなんやかんやあって出会い、なんやかんやあって場末のバーの地下に『ファイトクラブ 』を設立し、社会的弱者、強者入り混じってお互いを殴り合い、その痛みの中に生きている実感を見出す物語である。

 

『痛みの中に生の実感を見出す』

 

これはある種の自傷行為ではあるが、余りに低い自尊心が故にリストカットなどを行う若者とは少し違う。大人たちが日々繰り返される虚無的日常から脱却する為の『自己の再確認行為』である。

淡々と仕事をこなす日々は長い人生においてなんの凹凸にもならない。社会人になれば誰しも一度は巻き込まれる、オーバーテイクのないオーバルコースでのレースのようなつまらぬ循環である。しかし忙しくて余裕がなかったり、ミスをして酷く落ち込んでいたりする時は「確かに自分は生きている、生きているから苦しいのか」というニーチェのような生の自覚を得られる。疲労やミスという精神に打ち込まれるパンチ、もはやファイトクラブ同様である。こうして僕は「忙しい、苦しい、あいつは馬鹿だ、使えない、あの担当者は頭がおかしい」と目を血走らせながら喚き散らして生の実感を得ることができる。抜け殻のように生きる虚無的な日常が良いのか、生の実感を得ながらも苦しむほうが良いのか。それともオウム真理教の洗脳方法のように苦しみ抜いた末の平穏を夢みるのか。

苦しみ方に関しては千差万別で、人を殺したり、万引きしたり、痴漢をして人生を台無しにしたり、要はいろいろ。けれども「酷さ、深刻さ」は日々増している。それだけ人は「生きる」という事に対して無自覚で感覚そのものを失っているのだろう。

もちろん何もしない人も多い。する必要もない人だっている。結婚したり、子供が生まれたり、美味しいランチを食べたり、出世したり、そういったことだけでジェットコースターのような楽しい人生と感じられる人もいる、それは幸せだ、声を発する必要などない。もしかすると気づいていないだけかもしれないが。

また、苦しみだろうが喜びだろうが感覚は思考よりも優先される。感覚の多くはすぐに思考でまとめることができない。2008年の北京オリンピック北島康介が金メダルを取ったときに「なんも言えねぇ」と発言したのは、その時の感覚を思考の産物である言葉として即座に表現できなかったからである。感覚が優先されたが故の発言。そしてそれをまた再現するため、後に思考するのである。

 

2017年にすばる新人賞を受賞した山岡ミヤ氏の『光点』という作品がある。その中で主人公の少女が出会う男は冷凍食品を扱う倉庫で働いており、日々冷気により体の感覚が失われて行く。男はある日、休憩時間に味噌ラーメン食べる。別に空腹でもなく、むしろ無理に食べたせいで気持ち悪くなるのだが、彼は「胃に何かある」という感覚が生の実感に結びつくと言う。感覚が失われてゆく中でそれが救いなのだと。

つまり自分は彼の言うところの「胃に何かある」という状態を維持したいのである。でも痛いのは嫌だ、苦しいのは嫌だ、刑務所には入りたくない、一体どうしろと、何をしろと、ひたすらに考えるだけで何日も、何十日も何百日も、何千日も過ぎてゆく。受け身で他人の文句を垂れながら革命を待ち、眠ることを拒み、明日を恐れながら、インターネットの片隅で「俺は辛いんだ」と叫ぶことしかできない。曰く言い難い焦燥に駆られながらも既にどうしようもなく、また虚空の日々を送ることしかできない。目先の快楽すら虚しいだけ。