小説『夕焼けは無く』1話〜6話
1.
「雨が降るかも。」
マコがそう言った数分後、その予言は見事実行に移された。眼が冴えるような11月初旬の空気、息を吸えば食道や肺がスッと冷えてどこか心地よい乾きが体を満たし、そしてそれを補うかのように雨が滴り落ちる。開け放たれた窓から風は無い、ならば窓は閉めない方が良い。室内にいながら雨宿りをしているような気分だ。
「雨が降ると、ザーって音がするじゃない?ま、今がそうなんだけど。」
マコは机に肘をつき、気だるそうに灰色の空を眺めている。
「あれって、雨が屋根や草木に当たる音なのかな。」
後ろの席に座る僕は、そうなんじゃない?と特に考えもせず反射的に答えた。教室には僕たち2人以外誰も居なかった。
「だったらさ、砂漠に雨が降ったら、どんな音がするの?なにも音がしないの?」
「そんなこと、考えたこともなかったよ。」
彼女はなにも答えない、暫しの沈黙。一秒毎にコチコチと鳴る時計の音は、僕に会話の続きを促しているかのようだった。まずったな、少しだけそう思う。
「まあ、濡れた地面に雨が落ちればボツボツと音を立てるかもしれないけど、降り始めはとても静かなんじゃないかな。僕の勝手な想像なんだけど。」
雨音は一気に強まる。しかしそれは、この雨が長続きせずに、すぐに止んでしまうものなのだと僕に予感させる。まるで夏のスコールだ。
「激しくもさらさらと降る雨…。」
彼女はそう言うと突如立ち上があった。椅子は追い出されるようにガラガラと音を立てて後退し、僕の机にぶつかる。ダンッという音がしんとした教室に響き渡った。
「それはとても、とても。」
「美しいんじゃないかな?」
肩まで伸びたマコの黒い髪がほんの少し風に揺れた。
2.
「あらあら、誰もいない教室で二人はなにをしているのかな。」
サキはにやりとした笑みを浮かべ教室の後ろに立っていた。
「あんたを待ってたんでしょーに。」
サキが合流し、教室を出た僕たち三人は職員室を目指し薄暗い廊下を歩く。マコとサキは昨晩近所で起きたコンビニ強盗の話をしている。犯人は未だ逃走中で、しかも現場は二人の家の近くということで、おいおい夜に買い物できないじゃないかと嘆いていた。僕は会話に加わることなく、彼女らの後ろを歩きながら艶のあるマコの髪や、健康的に揺れるサキのポニーテールを眺める。飽きない光景だな、と思う。それと同時に、マコの家の近くの公園を思い浮かべてしまった。緩やかな、長い坂道を登った先にある小さな公園。僕は週に一、二回、夜になるとマコと二人でそこへ行く。そしてベンチに座り木々の隙間から覗く高層ビルの夜景を見ながら喋ったり黙りこんだり、お茶を啜ったりする。サキはこのことを知っているのだろうか。
雨が降り始めて間も無いが、廊下の空気は一変していた。塗料で塗り固められ、ツルツルとしたコンクリートは素早く湿気を含み、急に陰った日差しはどこか陰鬱な薄暗さを廊下にもたらす。僕はこの空気が嫌いじゃない。人っ気の無い校舎、どんよりとした空を写す踊り場の窓、渡り廊下では水しぶきをあげて走る車の音、遠くから「さようならー」という声が聞こえる。
「用事ってなんだろうね?」
マコは少し楽しそうに、ちらりと僕の顔を覗きつつもサキに訊く。
「さぁ。廃部のお知らせとか?」
「うわ!ありえる!!」
サキがコンコンとドアをノックする。うーい、という中年男性の声が聞こえ、彼女はガチャリとドアノブを回す。
「タカハシ先生、いますかー?」
3.
「これこれ、これを渡そうと思ってな。」
職員室に着くと、顧問のタカハシ先生が僕ら三人にプリントを渡す。そこにはこう書かれていた。
『高校生環境絵画コンテスト』
「これ、2年のお前らだけで参加な。入賞よろしく。」
僕らが所属している美術部に三年生はいない。いるのは僕、マコ、サキの二年生三人と、一年生四人の計七人だ。全員が全員、真面目に取り組んでいる訳ではないが、なんとか細々と平和にやっている。実際のところ、吹奏楽部を除く文化部なんてすべてそのようなものだと思うが、特に用がなくとも毎日放課後に立ち寄ってもよいと思える場所があるのは有難かった。
部室に着くと、一年生のフミカが、「あー!先輩!先輩!」とサキに駆け寄る。もう一人の一年生コウキほ黙々と海の絵を描いていた。
「チナとユリは?」
「今日は休むそうです。」
サキが尋ねるとコウキがキャンバスから目線を逸らすことなく答える。
「そっか。」
「先輩!先輩!今日もゲームしましょうよ!Vita二台持ってきたんですよ!」
フミカははしゃぎつつもねだるようにサキにゲームを持ちかける。
「悪いねフミカ、私は今日これの題材を考えなきゃ。」
サキはヒラヒラとプリントを振りかざし、フミカにそれを見せる。彼女はプリントを受け取ると、「なんですかこれ。」と言いながらまじまじと眺めた。
「えー、つまんな。こんなのやらなきゃいけないんですか。」
「つまんなくても部活として一定の成果は出してかなきゃ部費どんどん削られるよ。」
「そもそも私たちに部費を使う権限無いんですから、削られるとかなんとか言っても何も変わらないですよ。もういいじゃないですか、アニメみたいに放課後だらだらするだけの部活で。」
「もう既にそんな状態だろ。」とコウキが口を挟むと、サキがははは、と笑った。
4.
月曜日の放課後、僕は早めに部室へ行き、土日の間に下書きをしておいた絵に取り掛かる。マコは既に部室にいて、部屋の片隅にある机で肘をつきながら本を読んでいた。
「マコ、あんまり肘をつかない方が良いよ、顔歪むよ。」
「んん?うるさいなぁ。大丈夫だって。」
それっきり会話は途切れ、僕らは黙り込む。三十秒ごとに時計の針がカタリと音を立て、その度に部屋の温度が下がってゆくようだった。
西日が強く差し込んでくる。少し空けた窓からは緩やかな風と吹奏楽部の奏でるトランペットの音が舞い込み、肌色のカーテンがふわりと揺らめく。静かで落ち着いた時間だったが、廊下のほうからは少し急ぎ足の足音、タッタッタッという足音響いてきた。「サキだな。」そう思うと案の定彼女が「やはー」と言いながら入ってくる。
「一年生は集会あるから少し遅くなるってよ。」
「オッケー。」
サキは教室に入ってくるなり足を止め、僕の絵をまじまじと眺める。
「なにそれツイッターの小鳥?」
「いや違うから。」
「じゃあなに。」
伝わらない絵の概要をいちいち説明するのも野暮な気がして僕は一瞬黙り込んでしまったが、こうも首を傾げ不思議な顔で見られたらそうはいかった。
「えっと、空に放ったはずの小鳥が落下してゆく様子。両手でそっと包んでいた小鳥を、ふわりと空に放ったら、そのまま落ちてゆく様子。」
「ええ...。」
サキはうわ、引くわぁ、と言いながら視線だけをこちらに残しマコの元に歩いて行った。
「ねぇ、マコは描く絵決まったの?」
「たった今ね。」
「えええ、どうしよ。なんで?二人とも早くない?私まだなんにも決めてないんだけど。」
サキはそう言いながらも焦る様子は無く、マコの向かいに座ると彼女を真似て肘をつき、にこにこと笑った。
日が短くなってきた、僕はそう思う。静かな部室に夕日が強烈に差し込み、部屋は溶けた鉄のように赤く染まっている。彼女ら二人の影は闇のように濃く、どこかドロリとした黒さをもって部屋を横切っていた。
5.
夕食後、自室に戻ったものの特にやることがなかったので机の上の砂時計をひっくり返し、じっと眺めた。五分間、それを最初から最後まで。よく雑貨屋などで砂時計を見かけるとついついひっくり返してしまうので、ならばいっそのことと思い、先日購入したものだ。何も考えたくないときはこれに尽きる。体感的に早くも遅くもなく、そして何より飽きない。一秒よりもさらに小さな時間たちが粒となり、積み重なり、山となり、時間というものを可視化させてくれる。時間は確かに『流れている』のだと実感できる。
何回砂時計をひっくり返しただろうか、ふと我に返ってスマートフォンの画面を見る。しかし誰からも連絡は来ていない。マコはあの公園にいるのだろうか?僕はベッドに飛び込み、少しそのことを考える。ただ思考は安定せず、物凄いスピードで展開する紙芝居のように、次々と過去や今のこと、そしてまだ訪れもしない未来のことが頭の中を駆け巡る。あーだめだ、僕はそう思い、風呂に入るため部屋を出た。
体を流したあと、再度自室に戻った僕は窓を開け夜風に当たる。室内よりも少しキンとした冷たさのある夜風が、さらさらと体を通り抜け、全身の湿気を吹き飛ばしてくれているようだった。移りゆく季節を直に体感している時、なんとなくじっとしていられなくなる。そうして僕は勢いよく窓を閉め、上着を着込んで外へ出た。
6.
コンビニでピザまんとホットのカフェオレを買い、公園へと続く坂を登りながら食べ歩く。空気はすっかり冬の様相を呈していて、夜の空にきらめく星々やビルの灯り、街灯は乾いた空気の中できりりとした輪郭を持っている。この時期になると、毎年のように、冬は長いから嫌いだと思う。しかし、そうやって繰り返す季節に終わりを感じられずとも、僕らは毎年のように歳をとって、毎年どこかで再度季節を迎える。それは気が遠くなるような繰り返しで、生命の終わりすらも凌駕し、この坂道のように長い。しかし坂道は続く、坂は長い、足が疲れた、休息はどこだ?たとえそれが叶ったとしても、休息を取るということはまた始めなければならないのか?休息とはなんだ?いつか休息は終わるのに、また一歩踏み出さなければならないのに、それを受け入れる余地はどこにある?ああ、なんだかマコに会いたい、声が聞きたい、僕が寂しいときに側にいてくれる彼女が好きだ、じゃあ彼女が寂しいときは?知らない、でもそれを悟ってみたいと思う。だから今日だってこうして夜に・・・。
「ショウちゃん!」
ポニーテールを揺らしながら彼女は走って来る。坂道を力強く蹴って、強く息を吐いて、僕の名前を叫び、僕を立ち止まらせて。
「サキ、どうしたの、こんな時間に。」
「後ろ姿が見えて、ショウちゃんだと思って。」
ゼェハァと息をしながら彼女はいつものように微笑む。
「なんだか嬉しいなぁ、こんな時間にこうしてショウちゃんに会えるの。ちょっとした買い物の帰り道とか、用もなくプラプラしているときにこうして友達に会うのって嬉しい。ショウちゃんこそ何してるの?こんなとこで。」
「いや、特に用事はないよ。たまにこうして散歩してるんだ。」
「へぇ。私はちょっと買い物しててその帰り。」
彼女は相変わらずぜぇぜぇと息をしていて苦しそうでだった。別にそこまで全速力で走る必要もないじゃないかと思ったが、そういったところがサキらしいところでもあった。彼女はちょっと待っててと言うと、坂の途中にある自動販売機でミネラルウォーターを買うと一気に半分ほど飲み干した。
「なんかさぁ、まだ私たちが小さかった頃もあったよね、ここでこうして偶然会ったの。」
「ん?そんなことあったっけ?」
「ええ?忘れたの?私たちがまだ年長さんでさぁ。」
「いやいや、幼稚園児のころなんて覚えてないよ!」
彼女は本当に記憶力が良く、ことあるごとにあの時はこうだったよね、あの時はこうしたよね、と尋ねてくる。ただ僕がそのことを覚えているかといえばそうでないことが多いのだ。
「私はお母さんと一緒に習い事から帰ってたところだったんだけど、もう夕暮れも近いっていうのにショウちゃんがこの坂道をとぼとぼ歩いてて、私が駆け寄って声を掛けたら道に迷ったって!」
彼女は嬉しそうにゲラゲラと笑う。
「ショウちゃんそれまでボーッとした顔してたのに私の顔見るなりグスグス泣きそうな目になって『ここどこ?』って言うんだもん。おかしかったなぁ。きっと私の顔見て安心したんだよ、嬉しかったんだよ!」
こうやって昔のことを話すときの彼女はいつも本当に楽しそうで、たとえ僕がそのときのことを覚えていなかったとしてもつい懐かしいような気持ちになって、一緒になって笑わずにはいられなくなる。それでも彼女は昔のことを思い出すと切なくなると言う。
「楽しい思い出ってさ、そのあと暫くはどこかふわふわしたような気持ちが続くじゃない?思い出しただけでフフって笑いそうになったり、泣きそうになったり。だってそのときの感情をそっくりそのまま簡単に取り出せるからさ。でもその感情はだんだんと薄まってしまって、ついには『楽しかった』というだけの記憶しか残らないの。家族や友達と『あの時はさー!』って話していても、その記憶にしっかりとくっついていた感情はもうパリパリと剥がれ落ちてしまっているっていうか、今となっては本当に楽しかったのか本当に悲しかったのか、それすらもあやふや。」
「一般的には、人間は昔のことを美化するもんじゃない?思い出フィルターだよ。つらい記憶さえも美化しちゃう人がいるくらい。」
「みんなそう言うけど、私はそうじゃないな。思い出は綺麗なものだって思いたいし、実際そうだったのかもしれないけど、その時は必死だったり忙しかったりで特に何とも感じられなかったのに『あの時はこうだったなぁ』ってそれを美しく思うのはなんだか変だよ。やっぱり現在進行形でいまその時が楽しく、嬉しく感じられないと。」
人は過去の出来事にすら願望を抱く。こうであったはずだという過去の出来事。しかし彼女は過去のことは悲しみの中だけにあると言う。
「だから・・・。」
彼女はそこで言葉を区切り、一息置いてから再び話し始める。
「だから私は毎日新しい思い出を求めたい。過去の感情が風化していっても、新しい感情がその虚しさを埋めてくれればいい。」
いつの間にか坂道は登り終えていた。カフェオレは飲み干し、ピザまんは食べ終え、そのゴミすらもどこかへ捨てているのだろう、僕は手に何も持っていなかった。空気は冷えて目の覚めるような鋭さも持ち始めていたが、長い坂道を登ったせいか、意識はぼんやりとして現れ、まるで夢を見ているような気分だ。ただ、そうした空気を誰かと、誰かというよりサキとこうして共有できるのはなんだか嬉しかった。もう少しここでこうしていたいような気もする。目の前には高層ビルの灯す航空障害灯の赤い点滅が無数に見えてきた。公園はもう近い。
「なぁサキ、ここからちょっと歩いたところに夜景の綺麗な公園があるんだよ、今から見に行こう。」
「うんうん、そうしよう!」