縦裂FNO

日々、見るもの流れゆく物の例え。

感情と出来事を埋める言葉

人は喜びや悲しみを感じる時、それをいちいち「言葉」として捉えるだろうか、感情の様々な構成要素をいちいち言葉として捉えるだろうか。

自分が「嬉しい」「楽しい」「悲しい」と感じているとき、なぜ自分がそう感じているのかを根掘り葉掘り事細かに言葉として書き起こしてゆくと、結局は時間を遥か過去にまで遡る羽目となり、生命の根源的要素はおろか、宇宙の起源にまで到達してしまう。例えば、自分が生まれなければその感情が生じる事も無かった訳であるし、それは両親の恋愛や結婚に関わり、そのまた上の世代、知り合うきっかけ、法制度、etc....そして最終的に「ビッグバンによってこの世が誕生したからです」にまで至る。

ただこれはやや不可逆的に思える。要は出来上がった料理はもう食材には戻らないということだ。「今ぼくが嬉しいのは150億年前にビッグバンが起きたことに由来します。」などと言っては物事の前後関係無視も甚だしいし、なにより飛躍しすぎている。生れてこのかた人生に訪れた様々な選択、全身に張り巡らされた神経のように枝分かれしてきたその選択は絶対に辿れない。そんなことをしていたら「タラレバ」は天文学的数値に膨れ上がり、もはや自分の原型など留めることはできないだろう。捨て去っていった可能性にいちいち理由をつけていては年老いて死んでしまうのだ。過去を起点として今へ向かうその全ては語れない。

ぼくはこの点に言葉の限界を感じる。つまり言葉によって感情の「繋がり」を辿ることはできるが、捨て去った選択肢や可能性は語れない。「今の出来事」と「過去の出来事」、「今の気持ち」と「むかしの気持ち」その間には語りきれない何かがある。実は語ることができるのかもしれないが、そんなことをしていては人生が終わる。感情と出来事の間には一体何があるのか、それはわからない。結局は見たもの聞いたものが全てなのかもしれない。だから、今ぼくたちが「嬉しい」とか「悲しい」とか、そんなことを感じているのは「嬉しい」からであり「悲しい」からだ。説明すべきことなどない。