縦裂FNO

日々、見るもの流れゆく物の例え。

声は顔の一部などではない。

 東京の杉並区にあるとある駅、僕は改札前で友人を待っていた。日頃から電車を利用する人にはわかると思うが、通常駅の改札前は目の不自由な人の為に「ピーーーン、ポーーーーン」という誘導音が鳴っている。

 だが、聞こえてくるのはそれだけではない。人待ちで手持無沙汰な僕は喧騒を掻き分けある一つの音に辿りつく。

「ここはJR線、東西線改札口です。」

間髪置くことなく次の声も聞こえてくる。

「ここはJR線、東西線改札口です。」

「ここはJR線、東西線改札口です。」

 これも目の不自由な人の為の音声案内なのだが、特筆すべきは声のパターンが複数存在しているということだ。全員男の声ではあるが、おそらく十数人分のパターンが存在しており、毎回別人が喋っているのである。確かに聞いていて飽きはしないが、なぜこのようなことをしているのかは不明...(暇なのだろうか…)。

 定刻になっても友人は表れないので、僕は暇つぶしにこの音声の「切れ目」を探す事にした、どこかのポイントでループしているはずなのだ。

 僕は数分間その声に耳を澄ます。だがこれが全く分からない。全ての声が「さっき聞いたような気がする…」といった状態でさっぱり区別できないのだ。このことによってつくづく人間の音声認識能力は低いものなのだと痛感した(僕の音声認識力が低いだけかもしれないが)。まぁ考えてみれば顔だって覚えるのに苦労するのだから声が覚えられないのは当然なのかもしれない。例え自分の親でも電話口で違う苗字を名乗れば別人だとしか思わないのではないか。

だがその数時間後に僕は気付く。

「歌手の声は一発でわかる」

顔でなく声で認識してもらう世界、やはりその個性は凄いのだと痛感した。