縦裂FNO

日々、見るもの流れゆく物の例え。

情報の必要性

 

 その日は特に用事があるわけではなかったが、母の仕事が休みだということで、いつまでもダラダラと寝ているわけにはいかなかった。僕はいつもより少しだけ早起きをすると、顔を洗ってリビングへと向かった。すると母から朝の挨拶も無いままに「ねぇ聞いてよ!」と声をかけられる。

「朝早くに婆ちゃんから電話があってね、6時半くらいに」

「婆ちゃんがどうしたの?」

「電話に出るなり『どうしよ!あんな、婆ちゃん頭がおかしくなってしもうた!』って.....」

「えええぇ」

「『今日が何曜日かわからんくなってしもうた!』って。それで爺ちゃんと朝から喧嘩したらしいよ。今日が水曜か木曜かってことで」

「嘘でしょ....」

「もうほんと呆れる....」

 

 母方の祖父母は2人とも87歳だ。当然だがこの年代の老人は近代化というものとは一切無縁の生活をしているし、適応する能力もない。祖父は元農林水産省職員という立派な職に就いていたが、退職してからというもの、新聞を取ることも辞め、ニュースすらも見ることはなく、老後の過ぎゆく日々をスカパーの時代劇チャンネルを見ることと、海へ釣りに行くことだけに費やしていた。そして近年大きな病気をして以来、釣りに行くことすらやめてしまった。祖母はそんな祖父を60年以上専業主婦として支えてきたので、社会に出た経験はなく、当然「世間」というものを知らない。3人の娘と、酒癖が悪くわがままな祖父を文句ひとつ言わず支え続けてきたその主婦として、妻としての姿勢は素晴らしいものがあるが、当然2人は全く世の中から隔離されてしまった。どれくらい世間から隔離されているかというと、それは東日本大震災を知らなかったというほどである。そのことで母はこの世離れ夫婦をきつく叱責したようだが、特に生活は変わっていないように思える。

 僕と母は、果物とヨーグルトだけの簡単な朝食を食べると、午前中のうちに家電量販店へ向かい、大きなデジタル電波置時計を購入し祖父母の家へ向かった。

 昼過ぎには祖父母の家に到着した。急な訪問だったので祖母は不在だったが、祖父が出迎えてくれた。

「爺ちゃん、ほらこれ!時計買ってきたから!ここに日付と曜日でるから、毎朝確認してね」

 母はそう言うと、買ってきたばかりの、大きな液晶のデジタル時計をテレビの横に置いた。

 しかし、予想もしていなかった事態が起こる。祖父はデジタル時計の見方がわからなかったのである。ちょうど時刻が12時過ぎということもあったが、祖父は時刻と日付を勘違いしていたのだ。その後時計の見方を何回か言って聞かせたが、正しく理解し、祖母に時計の見方を伝えられているかは怪しいところだ。

 別に僕はこの祖父母の悪口を言っているわけではない。むしろ「今日が水曜か木曜化で早朝から喧嘩する」なんて、なんとも笑える話だし、可愛く思えるくらいだ。ただ僕はこれだけ世間から離れていても、ちゃんと人間的に生活できていることに驚いた。『デジタルデバイド』という情報格差を表す言葉があるが、彼、彼女ら老夫婦は2015年という現代を駆け巡る情報、システムからは完全に隔離されつつも、体調がすぐれないことを除けば幸せに生活できている。この老夫婦の時間、彼らだけの時計の時間は20年以上止まっている、もしくは同じ時間を何度も何度も繰り返されているのかもしれない。

 このことをきっかけとして、僕は情報の遮断というものについて少し考えてみた。国家の情報隠蔽のような大層な話ではなく、単に個人として生きる上で目にする、耳にする情報に限定した話である。

 物は試しということで、僕は毎日行っているの好きなスポーツのニュースチェックを3日やめてみた。そして3日後にまとめてニュースをチェックしてみると、2つほど気付いた点があった。まず、ひとつめに、ニュースチェックが楽しくなったということである。惰性ではなく、本当に必要性があってニュースを見ているという感覚がしたのだ。そして2つ目は、出来事(ニュース)に「流れ」のようなものを感じたということである。久々に会った親戚の子が大きく成長していたり、数日見ていなかった植物の芽が大きく伸びていたりするように、物事は少し目を離していたほうが、その大まかな変化や出来事の推移を「流れ」として感じ取りやすいのだ。

 つまり情報はある程度「フレッシュ」である必要は無いのかもしれない。世間を「知る」ことは重要だが、ある程度そこから身を離すことで得られるものもあるということだ。それがスマホ依存症の現代人にこそ必要なものなのかもしれない。