縦裂FNO

日々、見るもの流れゆく物の例え。

生活時間

 

 僕は今、両親と共に九州のとある田舎町にいる(田舎といっても娯楽施設が無いだけで、自然が多い的な田舎ではない)。父方の祖父母の家。

 直前まで来る予定は無かった。東京でやるべきことは多かったし、本当はこんなところに来る余裕はなかったのだけど、無性に遠出がしたくなり、両親に無理を言って来させてもらった。社会に出るまで時間がないのだ。行けるべきところは行っておかなくてはならない。

 ここではすべての事が規則正しく、時間通りに行われる。朝7時には起こされ、食欲がなくとも朝食を食べさせられる。お昼ご飯は正午ぴったりで、僕が出かければ夕飯までには帰ってきなさいと言われる。19時、母に「ごはんだよ」と呼ばれリビングへ向かうと祖父は既にお風呂を済ませている。全てに手間暇かけられた健康的な夕食を終えるとお茶が淹れられ、少しの団欒の後、はやくお風呂に入りなさいと祖父に急かされる。それが20時。

 そんな生活リズムの中で、僕がなりより驚いたのは、夜の10時を過ぎると家の中に「深夜」的な空気が漂うこと。眠りへ向かう空気がある。今このブログを書いている時間(深夜1時30分)なんて、起きているだけで罪悪感を感じてしまうほどだ。仕事から解放されている両親は日付が変わる前にはすやすやと眠ってしまう。僕はすっかり取り残されたような気分になる。

 東京での生活はどうかと言うと、普段両親が仕事で忙しいので、僕は22時や23時に夕食をとることなど珍しくはない。一人で食べることだってある。布団に入る時間は深夜2時を過ぎる。そんな生活をしていれば当然、22時など夜である事すら忘れてしまう程に浅い時間だと感じていた。それは家族ではあるが、あまりにも個人の感覚だけで生きている世界。家族が集団であるという事を僕は忘れていた。集団ということは、ある程度個人の自由を捨ててでも規律に従わねばならない。それが健康的な生活というものだろう。大学に入るまでの18年間、学校でそれを学んでいたはずなのだけれど。