縦裂FNO

日々、見るもの流れゆく物の例え。

過去は今を生きているか

 

 数時間前ことである。深夜にパソコンの画像を整理していると、フォルダの中の懐かしい写真に目がとまった。高校時代の友達との集合写真。熊本へ旅行する際、出発前に撮ったものだ。日付には2010年と記されている。つまり5年も前の写真だ。

 パソコンなので写真の拡大も縮小も自由自在、5年前の自分の顔をまじまじと眺めてみる。その後は友人の顔を見る。とにかく見る。ひたすらに見る。

 そして僕は戦慄する。なぜならその写真に写る僕は完全に「少年」の顔をしていたからだ。僕は「現在」の自分と比較するために慌てて鏡を見る。確かに同じ顔ではあるが、顔はふくよかさを失い骨張っており、もうその顔つきは少年と呼べるものではなかった。毎日鏡を見ていても加齢による顔の変化に気付かないというのに。

 僕はまだ世間的には若いと言われる年齢だ。だからこそ自分の加齢による変化というものを意識したことが無かった。もちろん成人してからは人格という面で多少の落ち着きを得ることはできたが、それでも「老い」を感じたことはなかったし、精神的な下地は10代の頃のままだったのだ。だからこそ外面の変化に衝撃を受けた。そしてそれは「僕は昔のままではないのか?」という疑問を投げかけた。

 人と居るときに過去の写真を見るのは楽しい。なぜなら「あの時はこうだったね、楽しかったね」と過去の記憶を掘り返し、美しい思い出の共有に浸ることができ、尚且つそこに「現在」は介入しないからだ。多くの場合、写真というのは楽しい時間しか切り抜かれていないものであるし(記録写真や趣味としての風景写真は除く)、思い出はいつだって美化される。しかし、たった数時間前、深夜1人でいるときに過去の写真を見ると、それは現在の自分と過去の自分の対比という喪失感を伴う行為となった。

 顔つきの変化から導き出された現在と過去の比較、そして沸き立つ喪失感。ここで僕の言う喪失感というのは「あのとき想像した今の自分はこんなハズではなかった....」というようなものではない。今の自分などこれからどうにでもできる(未来への努力はいつだってできる)。この場合の喪失感というのは、「僕に残された若さはもう少ないのか?」ということである。悲しいことに、これは確実に「老い」を前提とした考え方だ。顔つきの変化は「加齢」を目に見える形で示したのだ。僕は残り少ない青春に、もう子供ではない自分に慄く。

 「今の記憶のままであの時の純粋で無垢な少年時代を送れたら....」とは誰しもが思う。よく「今の記憶を保持したまま小中学生に戻れたら最強!」みたいな話を聞くが、まぁそういうことである。僕は最強になりたいのである。時間は人に成長を与えるが、若さを奪い去ってゆく。この2つは両立できないものであるが、人々はそれを追い求める。

 しかし、心の平穏を掻き乱す喪失感の中、冷静になって考えてみると、その写真に写る若き自分もちゃんと今の自分を形作っているのがわかる。若さは全てに勝る価値あるものだ。だからどうしても過去に対して「喪失」を感じてしまう。だが「失われた」ことばかりに目を向けるのではなく、逆に今は何が「付加されたのか」を考える。するとその過去はしっかりと今を生きていることがわかる。大事なのは、過去の自分も現在の自分も間違いなく同じ「自分」だということ。そこを今一度確認する必要がある。人生は途切れることなく続いているから、過去は過去として独立しているのではなく、少なからず今の自分を構成している要因と考えなければならないのではないか。つい加齢による顔つきの変化に惑わされてしまうので、その点を見失いがちなのだ。すると結局「なんにも変っていない!」という考えに行きつく。確かにいろんな経験を経て、学び、成長はしたが、やはりそれらの下地にあるものは何も変わっていないのだ。それに気がついたとき、僕の感じていた喪失感は少し和らいだ。昔楽しかったことは今でも楽しいし、そしてこれからも楽しいものである気がした。僕はまだ過去と繋がりを断てるほど歳をとってはてはいない、ということだろう。ガキがそのままデカくなっただけだ。人は結婚して家庭を持った時、「子供のままでいる自分」が本当に終わってしまうのだろうかとも考えたが、なんにせよガキあることを真に辞めるその時は来るし、まぁそれまでは楽しみたい。