縦裂FNO

日々、見るもの流れゆく物の例え。

夏はよく人が死ぬ 後編

  

 僕は無響室に入った事がある。無響室というのは字の如く、音が吸収され響かない部屋のことで、ここで声を出しても耳をふさいで喋っているような感じがするし、声もいつもより大きく発声しないと相手に届きにくい。手を叩いたときに出るパンッという音も、部屋に広がると言うより、ぎっしりと満たされた静寂のなかに一瞬だけ音が無理に入り込むような感じなのだ。別の言い方をすれば、真っ暗なモニターに見えるか見えないかくらいに一瞬だけ映像が映り即座に消える感じで、聴覚的というよりはどこか視覚的な感覚に近いものがある。そしてこの無響室の面白いところは自分の血流の音が聞こえるというところで、心臓のドクン、ドクンという音が聞こえる。つまりこれはどんなに完璧な静寂を実現しようとも、自分の心臓が止まらない限り完璧な静寂は存在しないということになる。完全な静寂を求めている人がいたとしたら、その人はもう死ぬしかないのである。

  小3の夏休みに父に連れられプールに行った日、この日初めて、水中では無響室のように心臓の音が聞こえる、ということに気付いた。水中に潜った瞬間、蝉の鳴き声や子供たちのはしゃぎ声、工事の騒音が一瞬にして消え失せ、心臓の音だけが聞こえ始めた。これはなんとも不思議な感じがした。この日までに何度もプールへは行っているはずだが、このことをハッキリと自覚したのはこの日が初めてだった。帰り道でこのことを父に話したのを覚えている。

 水中では心臓の音がドクドクと聞こえ、自分が生きていることを強く自覚できる。しかし、このまま息をしないでいるとその音は消えてしまい自分は死んでしまう。若干の矛盾を孕んでいる気もするが、自分が生きていることをより強く認識するには死が目の前に、手の届く位置にある必要があるのだ。(無響室のような特殊な環境を除く)

 その点において、夏は生と死が最も近づく季節である。戦争や原爆といった悲しみを語る歴史、それと、お盆や肝試しといった我々に楽しさを与えてくれるもの、これらはすべて夏に起きた死が、生を全うする我々にもたらすイメージ、そしてイベントだ。例年夏になると、アナウンサーが無機質な声で熱中症や海のレジャーでの死者を伝えているが、それを聞いている人々は、その悲劇を当り前の事のように聞き流している。彼、彼女らの悲劇的な<季節死>は、それほど夏という季節に溶け込んでおり、その悲痛な叫び声は沈黙させられている。緑生い茂る木々を見上げれば、けたたましく、そして活き活きと蝉が鳴いていて、我々に夏であることを告げ続けている。しかし足元に目を向けるとたくさんの蝉の死体が転がっている。落ち葉のように枯れ、無言のままに横たわるその躯は、その騒々しさの行く末として酷く悲しいものに見える。見上げる視線の先、そして足元、この僅か数メートルの間に、生と死というそのままの姿では絶対に超える事のできない世界の深い隔たりがあって、夏というのはその見えない境界線がすぐ近くにあるような気がしてならない。

 父に連れられて行ったプールもそれなりには楽しかったし、帰りの食事も美味しかった。自分を苦しめるものは何一つ無かった。けれども、いつもなんとなく感じていた気だるい空気感は抜けなくて、静寂に包まれているような感覚が続いた。これは何なのだろう、何故なんだろう、これを打破するにはどうしたらいいんだろうと思った。ただ今思うのはそれはなにも間違ったものではなく、夏という季節そのままの姿なのだということ。上記したような事柄が我々に暗に示すイメージ。生と死の静寂。思春期ならではの多感さがそれに気付かせてくれたのだろう。今はなんとなくわかる。何のことはない、すべて当たり前のことで、死や静寂はそこに潜んでいるのではなく、隣に立っているだけなのだ。楽しいことばかりの夏ではない。死に目を向けさせるのも夏の役割だ。