縦裂FNO

俺はポエマー、すべてイカサマ。

鳥の筋肉

先日、昼食をとる時間もないまま仕事をしていたところ、気が付くと時刻は14時近くになっていた。もうこんな時間か、そんなことを意識した途端に空腹は襲ってくる。昼休みも終わったこの時間に社内でネットサーフィンしながらパンを齧るのもどうかと思ったので僕は会社近くの蕎麦屋に入った。

その蕎麦屋はお昼限定でかけ蕎麦にとり天丼がついて480円である。名前は『Aセット』、記号で呼ばれるAセットという名前の名前無きAセット。お、いいじゃん、と思って食券を買って厨房のおっちゃんに渡す。『Aはいりまーす!』掛け声が厨房に鳴り響く。ちなみに会社の近くには他にも蕎麦屋があって、よく行っていたのは怪しげなインドカレー屋の下にあった蕎麦屋なんだけど、そこの何が良かったかって店員がインド人だったことなんだよね、まぁ最近潰れたけど。

このお店は基本カウンターメインだが、昼休みも終わり客もまばらだったので僕はテーブル席に座った。それくらい許してよって気持ちで。ただそのテーブル席一帯だけ内装がウッド調でどうも雰囲気が違う。しかもよく見るとなんちゃらカレーハウス(よく覚えていない)とかいうロゴがあちこちに張られてあってどうにも気になったが、とりあえず無視して「Aセットお待たせしましたー」と呼ばれるのを待つ。まさかと思って微かに聞こえる店員の話し声を聞いてみたが、やはり確実に日本語でヒンディー語ではなかった。近藤さんも大変だなぁとか聞こえたし。

それで肝心の食事はというとひどく期待はずれだったのだけど、その理由は『とり天』の定義の問題であって美味しいとか美味しくないとかそういう事は関係なかったように思える。僕の想像するとり天は胸肉で繊維が歯に詰まるようなパサパサしたものだったんだけど、今回出てきたのはモモ肉のとり天で、それはまるでケンタッキーのようだった。しかも揚げたてなのか肉に齧り付くと白い湯気がファーっと出てきてなんか冬になるとこんなケンタッキーのCMなかったっけ?とか考えてしまったし、こんなツルッとした肉じゃ米は食えねぇよ!とかなんとか、そんなこんなで二口ほど肉を齧ってとり天は残すことにした。ごめんよ、どんなに安かろうが食べ物を残すのは心苦しい。そしてとり天云々考えているうちに残された蕎麦も冷めてぬるくなりいろいろ諦めた。

結局のところワンコインランチというのは財布の中身は減らさなくとも精神を大きくすり減らしてしまうものだ。これが言いたかっただけ。

形は無いけどカタチになる

自分の仕事、6割くらいはメールだと思う。とにかく毎日100通以上のメールが来るし、頭を空っぽにして定型文を打ち込み、キーボードの文字が削れて薄れる程にそれらを捌く。そしてある日の昼休み、僕はパンを齧りながらメールチェックをしているときに思う。「『形』って言葉多用しすぎかなー」と。

形とは何か、と考えたとき、普通は物体を形成する輪郭のようなものをイメージする。四角いディスプレイ、丸いパン、細長い指、アーモンドのような目。「形作る」と言うくらいだから構成要素がいろいろと混ざり合って輪郭を作るのだろう。

しかし僕がメールで使う「形」は物質ではない。一連の流れをパッケージングしてそれを「形」と言っている。「分割注文の一括請求という『形』」、「一度会社に戻って打ち合わせに向かう『形』」などなど。正式に表現するなら「形式」だろうか。無形だけど形。

こういった表現は日本語だけ?英語やフランス語や中国語では一連の流れを「形」とは言わないのだろうか?形式は英語で「format」だけど日本語で使う意味とは少しズレる。どちらかと言えば「go through」のほうが意味が近いかもしれない。工程を踏んで進むイメージがある。

まぁこれ以上あーだこーだ書くのも面倒だし実際どうでもいい話なのですがね。

 

漫画返せ

 早稲田松竹で映画を観た帰りのこと。魚喃キリコの漫画が原作の映画『blue』を観た。作品の良し悪しは別として、なんとなく鑑賞後はひとり街を闊歩しながら頭の中で言葉探し。実経験では持ち得なかった感情を映画から得るのだ。それはただの暇つぶしかもしれないし、カッコつけたいだけかもしれない。とりあえず誰に語る訳でもない映画の感想をあーだこーだと考える。入館時はまだ明るかった空も映画館を出る頃にはすっかり暗くなり、日中は初夏のように暖かかった空気も季節相応に寒い。だが、この落差が映画の醍醐味だろう。映画の中で進む時間、現実の時間、明日が近づく憂鬱。ビルとビルの間からは冷えた風が強く吹き込んでくる。そんなこんなであっという間に駅へと着いた。

 改札を通過後、高田馬場から発車直前だった西武新宿線に飛び乗る。帰宅ラッシュの時間帯、満員だったが、なんとか隙間を見つけて体をねじ込み、ぼーっと窓ガラスに映る自分を見ていた。すると背中に誰かの鞄が当たる。痛い。硬い。誰だ。きっと鞄には弁当箱か水筒が入っているに違いない。ことによるとPCか、それくらい硬い。痛い。鞄やリュックは前にして電車に乗るのがマナーだろ、そんなことを考えながらそっと後ろを振り返ると仕事帰りの若い女性。あれ?と思う。知っているような顔。後ろから少しだけ見えた横顔だし定かではないけれど、たぶん大学時代の同級生。どうしよう、声を掛けてみようか、でも人違いだったらどうしよう、いっそここは向こうから声を掛けてもらえるよう仕向けるか?しかし変わらず美人だ、でも彼氏もいるし近々結婚するとかそんな噂も聞いたぞ、うわ、なんか悔しい、といろいろな気持ちが僕の中を駆け巡る。たしか彼女は沼袋に住んでいたはずだ、だから沼袋で降りたら確定だ。でも電車を降りはじめた瞬間に声かけてもダメじゃん、「久しぶり、あ、降りなきゃ、じゃーねー」で終わってしまう。どうしたものか。後で飲み会とかで会った時に「あの日電車乗ってた?」とか言われるのも嫌だ、それはなんだか臆病者みたいじゃないか。そういえば学生時代、彼女にけっこうな量の漫画を貸していたっけ、そしてそれは一冊も帰ってきていないし、彼女の友達に又貸しされているとも聞いた。それを思いだしてからは尚更声を掛ける必要があるように思われた。「こいつ、鞄を俺の背中にガツガツと打ちつけながら澄まし顔で電車乗ってやがる上、漫画も数年借りっぱなんだよな」というわけでだんだん腹が立ってきた。なんとか今ここで声を掛けて漫画を返してもらう約束を取り付けないと、でもこいつ婚約してるんだよな、そんな約束はできないか、いやでも結婚してからではもっと手遅れだとかんなとかで電車は沼袋に到着し、彼女はすたすたと電車を降りて行った。

 その日の夜、ベッドの中で「変わらず美人だったなぁ」とか考えて寝た。

電気箱

冬場、エレベーターのボタンというのはそこへ行くのを拒むかのように凶器となる。静電気がきまくるという意味で。

一回目、一階から四階へ。壁に備え付けられているスイッチ、④を押すとバチンときた。ただ静電気というより普通に感電だろって程に痛くて僕は真顔になった。右手全体が痺れている。

二回目、四階から一階へ。さっきの静電気のことを思い出し、エレベーターへ乗り込むと同時にビビる。明らかに挙動不審。僕は意を決して①のボタンを叩くように押そうとしたが、ふとポケットにボールペンが入っていることに気が付いた。これで押せばいいじゃん、と、僕は安心感からか、意気揚々とペン先で①のボタンを押す。すると青白い火花が散りながらバチっと音がなる。右手はビリビリでまたも真顔になる。真顔になっていると三階でどっかの業者のおっさんが乗ってくる。手には謎の白いゴムチューブ(約三十センチ)。それでエレベーターのボタンをぽちぽちと押し始めた。僕はさらに真顔になる。するとおっさんが喋る。「あ、もしかしてバチっときた?ここね、気をつけた方がいいよ、すんごいから。一本あげようか?絶縁チューブ。」「いや、別にいいっす。」

三回目、一階にいた同僚に声を掛けて二階へ上がる。僕は何も言わず同僚の後をつけ、②のボタンを押すのを見届ける。バチンと音が鳴る。「うわ!いてぇ!静電気やべえ!」

四回目、二階から三階に上がる。僕はまたも何も言わずに同僚の後をつけ、エレベーターに乗り込む。同僚が③を押す。バチンと音がする。「いてぇ!は?なんだよこれ。さっきもきたぞ。乾燥が酷いのか。」

五回目、三階から一階へ。僕はリュックから上履きを取り出し、その先端(ゴム)でボタンを押す。さすがにもう電気は流れない。やべぇ場所だけど、これで一安心と考えながら無意識にエレベーターの壁を触る。するとバチン。

帰り際、どっかのお堅い営業マンがエレベーターに乗り込もうとしている。数十秒後、「うわ!いってぇ!なんだこれ!」と大きい独り言が聞こえてきた。

幽霊船

蛇口を押し上げ水道水をコップに注いでいると、どんなものにもそれを許容できる限界というものがあるのだとよくわかる。どんなに大きめのコップを使おうがそれは容れ物である限りいずれ満杯となり水は溢れ出す。
それと同じで、自分が限界だと感じる場面は誰にだって想像はできるし、まさにいま経験をしている人もいると思う。学校でのイジメや職場での苦痛を伴う労働、人間関係や体力の問題だってある。体の大きさが人それぞれであるように、詰め込むことができる感情の量もまた人それぞれで、コップのように容れ物の大きさを目視することもできず、その大きさは自分ですら測り得ない。感情ごとに容れ物があり、出来事に応じて言葉や涙や疲労やため息や表情がそれを満たす。水位のように上がったり下がったり。
そもそも自分の感情が一体いくつあるのだろうかと考えた時、それは思いのほか少ないことに気がつく。怒り、悲しみ、喜び、安堵、不安、もちろんそれらが混在していることもある。でも、数え得る感情は意外にも少なくて、その中にいろいろな日々の出来事を詰め込んでゆかねばならない。時に溢れ、時に枯渇し、空っぽであることもまたひとつの限界の形式であるように思える。感情が豊かだね、感情に乏しいね、そんな事を言われる世の中だけど、抱えている感情の数は思いのほか等しくて、ただ容れ物の大きさが違うだけなのだろう。

2017年 10月30日~11月5日

10月30日(月)

代休で仕事は休み、3連休。しかし代休と言えどいつも仕事の電話は来るしメールも来る。そんなうかうか昼寝もできない状況を休みと言えるのだろうか。とりあえず朝はいつも通り起きて歯を磨き顔を洗う。そして再びベッドに横になって、鳥の鳴き声やゴミ収集車のガラガラといった音を聞く。そうして「あ、今日休みなんだ」という実感を得る。平日の朝、生活の音は安らぎの象徴であり、罪悪感の象徴でもある。暫くして二度寝の誘惑、今日も働く人たちを想いながら、何事も起こらない日であることを祈る。そして電話は鳴り、メールは届く。今日は休むって言ってましたよね?聞いていたのでしょうか?いや、電話も鳴らずメールも来ないほうが非日常。

夜は新宿でお酒を飲む。普段あまりお酒は飲まないけれど(飲めないけれど)、酔っ払えれば楽しくなれる。記憶は残らなくても楽しかったということだけ覚えていたらそれで良い。もちろん苦しかった記憶のほうが残るのだけど。

 

10月31日(火)

この週は金曜日が祝日。月曜日を休んだので僅か週3日間の出勤となる。たった3日間の出勤、つまりそれは「やる気などありません」ということ。しかし出勤日が少ないということで、いつものように嘘の予定を入れてカフェや本屋でサボっていては仕事が進まなくなる。そうしていろいろなものを押し殺しながら社内に閉じこもってPCを睨み続ける。しかし3連休明けともなれば仕事の進め方も忘れてしまう。やらなければならないことは多いはず、しかしキーボードを打つ手は止まり、ため息のような嘆きばかりが口を突いて出る。

昼休み、ふと後輩のスマホを見ると黒と金のカラーリング。無口でおどおどしてばかりいる彼にしては不思議な色のチョイスだと思った。いや、でも内気な人に似合う色ってなんだろう。

 

11月1日(水)

この日は午後から超大手の誰でも知っている会社での打ち合わせ。驚いたのはその会社の社員がチャラいこと。私服に髭で、耳はピアスの穴ぼこだらけ。大きく開いた胸元からは毛がもじゃもじゃ。胸毛を保持していない自分にはわからぬダンディズム。煙草はきっとアイコス。そんなことを想像しながらも打ち合わせは進む。

 

11月2日(木)

出勤的には週の最終日。この日も社内に閉じこもり。明日から3連休ともあって、いつも以上に仕事は手につかず上の空。頭の中ではマタイ受難曲New Orderの名前は知らない曲がループ。何度も越えたきた筈の週末の苦難を嘆きながら時間が過ぎるのを待つ。無意味に10秒だけ数えたり、グミを噛む回数を数えて夜を待つ。

そして待ちに待った夜は新宿で沖縄料理。狭いカウンター、背後は開け放たれたドアで、吹き付ける風が背中を冷やす。その後は聞いていないにわか雨。それでも明日からの休息がなにもかも気にしないでいいよって気にさせる。

 

11月3日(金)

朝目が覚めると、予定よりも1時間寝過ごしていた。親戚の家へ遊びに行かなければならなかったので、レーシングパンツを身に付け、ビンディングシューズを履いて急いでロードバイクで駆け出す。リュックの中はスニーカーとジーンズと上着とiPadと文庫本。太陽が眩しい環状八号線。11月でも背中は汗でじっとり。

夜は六本木ヒルズで夜景を観る。よく都会の夜景を生き物のように例える人が居るけど、本当にそうだと思う。道路は血管で、走る車は血液。街は生きている。

 

11月4日(土)

親戚と神奈川観光。午前中は江ノ島、しかしいつもより人がまばら。天気も良いのにどうしてだろうと思いきや、先日の台風の影響で岩屋が閉鎖、観光できるゾーンが大幅に縮小されていた。あーあ、せっかくここまで来たのにと思いながらエビフライ定食を食べる。たいして好きでもないエビフライをチョイスしたのはそんなイライラからだろうか、それとも海に来ているのに魚介以外のものを食べるのは無粋だと思ったからだろうか。それにしても江ノ島という場所は本当に変化が無い。5年前に来た時も、3年前に来た時も、去年来た時も、今年も、何も変化がない。時間が止まっているというよりは、「今」という時間だけが重視されているような感覚。でもそれはきっと毎日この街が「はじめまして」の人々を迎え入れているからだろう。カメラを首から下げて「ここが江ノ島か!」と興味深そうな顔でそこへ立つのだ。

 

11月5日(日)

昼まで寝る。昼からは寝る。夜も寝る。明日が来る。

 

 

2017年 10月16日~10月22日

10月16日(月)

会社は初めから休むつもりでいた。とりあえず朝はいつもどおりに起きて、いつもどおり顔を洗って水を飲んだけど、その後はベッドに戻って「本日体調不良の為お休みを頂きます」とメールを打った。家の中のどたばたとした朝の喧騒は、ちゃんと仕事へ向かう真面目な人間が居るからこそで、罪悪感は家の中にすら潜んでいると知る。再び目を閉じたものの二度寝はできない。

夜は人と会った。自分は料理が苦手だけれども、人が食べたり飲んだりしているのを見るのは好きだなと思った。人が食べている様子は罪悪感だったり後ろめたい気持ちを薄くしてくれる。食べることが好きな人は自分自身をちゃんと労うことができる人だ。

 

10月17日(火)

仮病開けなので体調悪そうな顔をして会社へ向かう。しかしなぜか本当体調が悪くなる。罪悪感も薄れる。「顔色悪いなおい」という上司の声で心が少し楽になる。

 

10月18(水)

隔週開催の早朝会議。8時前には会社に着いてグミを食べる。会議のときだけいつもグミを食べる。後輩が話しかけてきて「グミ食べる人ってストレス抱えてる人が多いそうですよ」と言う。「へぇ」と返して「んなこたねぇよ」と心の中で思う。

 

10月19日(木)

午前中から仕事で有明へ行く。同行した上司が「おれ、来月で辞めるから奢るよ」と言って味噌ラーメンを食べさせてくれた。本当はチャーハンが食べたかった。はなればなれ、別れはあっけなく。もう会うこともない。

 

10月20日(金)

土曜日出勤が確定していたことと、この日は夕方から会社の飲み会があったので木曜日みたいな気持で過ごした。飲み会では同僚が酔いつぶれて「おれは会社の奴隷じゃねーんだぞ!」と上司に向かって叫ぶ。帰り際、五万円を超える会計を上司が一人で払っていた。日頃から偉そうにしているぶんそれくらいは払って当然だと思う。解散後、雨降りしきる中、駅まで歩いたのち少しだけ人と会う。雨は歩幅を狂わせる。次は晴れた日に会いたい。

 

10月21日(土)

休日出勤。どうせすぐ帰れるだろうと思っていたからそこまで重い気持ちではなかった。しかし実際はトラブって昼すら食べれず12時間箱詰め。顧客に怒られ週明けに後始末をさせられることに。いや、いい訳でもなく本当に天災のようなトラブル。どうしようもなかった。災害に争う術はなし。責任は宙に浮いたまま。でもそれを知っているのは自分だけ。知れるのも自分だけ。伝わらないから意味は無い。帰り道、雨降りしきる中、落ち込んだ僕の目に映るのはレオタード姿のおっさんと警察。これも伝わらないが故の光景。物事ってのは、こちらから伝えてない場合勝手に感じとらないで欲しい。でもそんなことは無理。26時間ぶりの食事は胃を痛くした。

 

10月22日(日)

台風接近。朝から雨。というか今日も雨。ずっと雨。明日も雨。しかし冷蔵庫は空っぽ。スーパーに向かう途中、ガソリンスタンドの前を通りかかったときにまだ大学生くらいの若い女の子のアルバイト店員とフリーターっぽい男が豪雨の中、暇そうに雑談をしていた。真っ暗な夜に眩しい水銀灯。濡れて輝くガソリンスタンド。雨音は激しくて二人の会話は聞こえない。