生物であるから歩く
先日のことである。駅の改札を出た僕は、すぐ目の前にある横断歩道を渡ろうと駆け出した。普段は人通りの多い横断歩道であるけれども、自分が渡り始めた時点で既に歩行者は居らず、青信号は間もなく点滅へと変化しそうな様子であった。
その途中の事である。
横断歩道の中腹で、僕はとある中年の女性を追い越した。彼女は右足を引きずりながら少しずつ、少しずつその横断歩道を渡ろうとしていた。その歩幅は僅か十数センチといったところで、既に信号機の点滅が開始された横断歩道をその時間内に渡りきるのは到底無理な事に思われた。「大丈夫だろうか」そう思った僕は、横断歩道を渡り終えた後も彼女の姿を目で追い続けた。直後、信号は赤に変わるが、案の定彼女はあと4,5メートルの距離を残して未だ横断歩道を渡り続けていた。信号待ちをしていた車はゆっくりと前進を始める。
「クラクションを鳴らされるんじゃないだろうか、そうしたら彼女は心を痛めるのではないか」
僕は彼女の心情を思うと少し辛くなった。
しかし車はクラクションを鳴らす事などなく、彼女が横断歩道を渡りきるのを待つ。
僕は安心して彼女から目を離し、そもそもの目的地である銀行へと向かった。
銀行で手続きを終えた僕は帰路につく。すると先ほどの女性が僕の前を歩いていた。相変わらずゆっくりと、そして少しずつ前進していた。僕が手続きに要した時間は約5分程度、それにも関わらず彼女は普通の人が僅か数十秒で歩ききってしまう距離を未だ悪戦苦闘しつつもがいていた。そのペースは先ほどよりも明らかに落ちている。それでも彼女は右足を引きずりながらどこかの目的地へと歩く。
生物が生物たり得る意味、それを考えた。
僕が彼女の立場だったらどうだろうか、きっと歩かないだろう。動かない足に対する引け目、苛立ち、他人の視線、人さまにかける迷惑…
きっと彼女も、最初はそうだったのではないかと考えた。しかしそんな事は知らない、当の本人しかわからない。ただの徘徊癖かもしれないし、本当は歩きたくもないのに自宅に居場所がなかったり、一人暮らしで歩かざるを得ないのかもしれない。
しかしどうであろうと、人は、動物は、虫は、生物である以上、歩かねばならないのである。それはもはや宿命とも言える。全ての景色も、全ての友情も、全ての感情も、自ら歩いたが故のものだ。
自己完結の果て
これは今朝がた、某SNSでも書いたことなのだが、通勤中に「仕事に行きたくない」「このままどこか行きたい」と感じるのは誰にでも良くあることで、皆思っていることである。ただ、それはなかなか実行に移せるものではなく、人々は群れをなして仕方なく職場へと向かわざるを得ない。
ただここでひとつ気をつけておきたいのは、そういった気分を指して「これが人生だ」と思っては駄目なのではないかということ。なんとなくそれを許容してしまったら己の人生が労働に染まってしまうのではないか、そんな不安と懸念が僕にはある。
悪意だけを真実とした行い、たとえば通行人を無差別に切りつける通り魔、その犯人が心の中に潜め隠しているものは「仕事に行きたくない」「このままどこかへ行きたい」という気持ちとなんら変わりない気がする。対話から孤立し、自分自身だけが世界のすべてとなったとき、犯行は行われるだろう。そして人は死ぬ、僕は仕事をサボる。これは凄まじい程に高純度な真実。なぜなら自分だけの真実であるからだ。他人が向ける視線によって歪む秩序など何ひとつ無い。全ては己の中だけで完結する。
お金とは労働の対価、いや、我慢の対価。友達を、家族を、知り合いを安心させる為の我慢、その対価。だがこれは自分が決めた価値ではない。
ああ、早く今日が終われと祈りの姿勢でデスクに腰掛け、待ちに待った束の間の休息は、再び抱え込む不安への準備期間となり、明日もまた、眩しい朝日を憎悪するのである。そんな僕はニートよりも無職よりも死刑囚よりも、世界の誰よりも不真面目である。
つまらない日々
日々はつまらないというのに、瞬く間に過ぎてゆく。まるで同じ景色が続く長いトンネルの中を物凄い速度で走りぬけてゆくかのようだ。では、つまらない日々を突き動かすのはなにか、トンネルの崩落をもたらすものはなんだ、出口の光は本物か?
そもそも日々とはなんだ。単調な何かのようなのに、その流れは強烈で僕らをいとも簡単に飲みこんでゆく。やっとの思いで見つけたその景色もその場所も、心地よい昼寝にでもさらわれようものなら、目が覚めたときそこは既に地平線の果てに流れ去っている。土曜日、日曜日という束の間の安息だけではこの流れに逆走し、爪を立てそこに踏みとどまることや、痕跡を残したりはできない。そして人は生きることへの焦燥を失い、ふとしたときに蘇る遠い日に消えた感覚だけを懐かしみ、それは美しかったのだと噛みしめる。
つまらない日々に抗えるというのなら、僕はその足掛かりを宝物のように思い、かき集めてゆくだろう。今それができているのかはわからない、だが常にその瞬間の為だけに靴底を減らしてゆかねばならないと、その覚悟に迷いなど無いのだと、血が出るほどに唇を強く噛みそれを証明する必要がある。しかしその足掛かりとはなんなのだろう、知らない誰かの写真だろうか、ふと見上げた高層ビルの灯りだろうか、電車の窓から覗く景色か、一斉に飛び立ってゆく鳥たちか、ドストエフスキーの小説か、プルーストの記憶か、ニーチェの諦めか、グールドの奏でるゴールドベルクの旋律か。
朝が来れば昼になり、そして夜が終わればまた朝が来る。変わるのは気温と明るさと、他になんだ?それだというのに、日付はカチッと音をたてて切り替わり、1が2になり、3になる。地続きであるはずの日々は数字を身に纏うことで人々に同じ世界が続く非情を叩きつける。
これが人生だ、と嘆くのは間違っている。過ぎ去る単調な日々の中で歳を重ねてゆくことは、そんな簡単に、ただのため息として片づけて良いものではない。月曜日が憂鬱なのも、水曜日が気だるいのも、それは人生を左右する重大な問題なのだから、その嘆きはトンネルが一向に終わる気配を見せていない証拠なのだから。
桜の季節に、知らない人々の中で知らない場所の知らないどこかを踏みしめるかのような気持ちは、絶対に手に入れられないものを掴める予感の中だけに存在する。あくまでそれは予感だけなのであって、気配すらも遠く、実態は感じられもしないのだけど、遥か先のいつか、そのとき何をすべきか、その大きな覚悟と決意と手繰り寄せるべきものの答えがある、いや、そうであって欲しい。だったら今日の寝る前に、少しだけ今自分がトンネルのどこにいるのかだけを考えてみたい。
小説『夕焼けは無く』1話〜6話
1.
「雨が降るかも。」
マコがそう言った数分後、その予言は見事実行に移された。眼が冴えるような11月初旬の空気、息を吸えば食道や肺がスッと冷えてどこか心地よい乾きが体を満たし、そしてそれを補うかのように雨が滴り落ちる。開け放たれた窓から風は無い、ならば窓は閉めない方が良い。室内にいながら雨宿りをしているような気分だ。
「雨が降ると、ザーって音がするじゃない?ま、今がそうなんだけど。」
マコは机に肘をつき、気だるそうに灰色の空を眺めている。
「あれって、雨が屋根や草木に当たる音なのかな。」
後ろの席に座る僕は、そうなんじゃない?と特に考えもせず反射的に答えた。教室には僕たち2人以外誰も居なかった。
「だったらさ、砂漠に雨が降ったら、どんな音がするの?なにも音がしないの?」
「そんなこと、考えたこともなかったよ。」
彼女はなにも答えない、暫しの沈黙。一秒毎にコチコチと鳴る時計の音は、僕に会話の続きを促しているかのようだった。まずったな、少しだけそう思う。
「まあ、濡れた地面に雨が落ちればボツボツと音を立てるかもしれないけど、降り始めはとても静かなんじゃないかな。僕の勝手な想像なんだけど。」
雨音は一気に強まる。しかしそれは、この雨が長続きせずに、すぐに止んでしまうものなのだと僕に予感させる。まるで夏のスコールだ。
「激しくもさらさらと降る雨…。」
彼女はそう言うと突如立ち上があった。椅子は追い出されるようにガラガラと音を立てて後退し、僕の机にぶつかる。ダンッという音がしんとした教室に響き渡った。
「それはとても、とても。」
「美しいんじゃないかな?」
肩まで伸びたマコの黒い髪がほんの少し風に揺れた。
2.
「あらあら、誰もいない教室で二人はなにをしているのかな。」
サキはにやりとした笑みを浮かべ教室の後ろに立っていた。
「あんたを待ってたんでしょーに。」
サキが合流し、教室を出た僕たち三人は職員室を目指し薄暗い廊下を歩く。マコとサキは昨晩近所で起きたコンビニ強盗の話をしている。犯人は未だ逃走中で、しかも現場は二人の家の近くということで、おいおい夜に買い物できないじゃないかと嘆いていた。僕は会話に加わることなく、彼女らの後ろを歩きながら艶のあるマコの髪や、健康的に揺れるサキのポニーテールを眺める。飽きない光景だな、と思う。それと同時に、マコの家の近くの公園を思い浮かべてしまった。緩やかな、長い坂道を登った先にある小さな公園。僕は週に一、二回、夜になるとマコと二人でそこへ行く。そしてベンチに座り木々の隙間から覗く高層ビルの夜景を見ながら喋ったり黙りこんだり、お茶を啜ったりする。サキはこのことを知っているのだろうか。
雨が降り始めて間も無いが、廊下の空気は一変していた。塗料で塗り固められ、ツルツルとしたコンクリートは素早く湿気を含み、急に陰った日差しはどこか陰鬱な薄暗さを廊下にもたらす。僕はこの空気が嫌いじゃない。人っ気の無い校舎、どんよりとした空を写す踊り場の窓、渡り廊下では水しぶきをあげて走る車の音、遠くから「さようならー」という声が聞こえる。
「用事ってなんだろうね?」
マコは少し楽しそうに、ちらりと僕の顔を覗きつつもサキに訊く。
「さぁ。廃部のお知らせとか?」
「うわ!ありえる!!」
サキがコンコンとドアをノックする。うーい、という中年男性の声が聞こえ、彼女はガチャリとドアノブを回す。
「タカハシ先生、いますかー?」
3.
「これこれ、これを渡そうと思ってな。」
職員室に着くと、顧問のタカハシ先生が僕ら三人にプリントを渡す。そこにはこう書かれていた。
『高校生環境絵画コンテスト』
「これ、2年のお前らだけで参加な。入賞よろしく。」
僕らが所属している美術部に三年生はいない。いるのは僕、マコ、サキの二年生三人と、一年生四人の計七人だ。全員が全員、真面目に取り組んでいる訳ではないが、なんとか細々と平和にやっている。実際のところ、吹奏楽部を除く文化部なんてすべてそのようなものだと思うが、特に用がなくとも毎日放課後に立ち寄ってもよいと思える場所があるのは有難かった。
部室に着くと、一年生のフミカが、「あー!先輩!先輩!」とサキに駆け寄る。もう一人の一年生コウキほ黙々と海の絵を描いていた。
「チナとユリは?」
「今日は休むそうです。」
サキが尋ねるとコウキがキャンバスから目線を逸らすことなく答える。
「そっか。」
「先輩!先輩!今日もゲームしましょうよ!Vita二台持ってきたんですよ!」
フミカははしゃぎつつもねだるようにサキにゲームを持ちかける。
「悪いねフミカ、私は今日これの題材を考えなきゃ。」
サキはヒラヒラとプリントを振りかざし、フミカにそれを見せる。彼女はプリントを受け取ると、「なんですかこれ。」と言いながらまじまじと眺めた。
「えー、つまんな。こんなのやらなきゃいけないんですか。」
「つまんなくても部活として一定の成果は出してかなきゃ部費どんどん削られるよ。」
「そもそも私たちに部費を使う権限無いんですから、削られるとかなんとか言っても何も変わらないですよ。もういいじゃないですか、アニメみたいに放課後だらだらするだけの部活で。」
「もう既にそんな状態だろ。」とコウキが口を挟むと、サキがははは、と笑った。
4.
月曜日の放課後、僕は早めに部室へ行き、土日の間に下書きをしておいた絵に取り掛かる。マコは既に部室にいて、部屋の片隅にある机で肘をつきながら本を読んでいた。
「マコ、あんまり肘をつかない方が良いよ、顔歪むよ。」
「んん?うるさいなぁ。大丈夫だって。」
それっきり会話は途切れ、僕らは黙り込む。三十秒ごとに時計の針がカタリと音を立て、その度に部屋の温度が下がってゆくようだった。
西日が強く差し込んでくる。少し空けた窓からは緩やかな風と吹奏楽部の奏でるトランペットの音が舞い込み、肌色のカーテンがふわりと揺らめく。静かで落ち着いた時間だったが、廊下のほうからは少し急ぎ足の足音、タッタッタッという足音響いてきた。「サキだな。」そう思うと案の定彼女が「やはー」と言いながら入ってくる。
「一年生は集会あるから少し遅くなるってよ。」
「オッケー。」
サキは教室に入ってくるなり足を止め、僕の絵をまじまじと眺める。
「なにそれツイッターの小鳥?」
「いや違うから。」
「じゃあなに。」
伝わらない絵の概要をいちいち説明するのも野暮な気がして僕は一瞬黙り込んでしまったが、こうも首を傾げ不思議な顔で見られたらそうはいかった。
「えっと、空に放ったはずの小鳥が落下してゆく様子。両手でそっと包んでいた小鳥を、ふわりと空に放ったら、そのまま落ちてゆく様子。」
「ええ...。」
サキはうわ、引くわぁ、と言いながら視線だけをこちらに残しマコの元に歩いて行った。
「ねぇ、マコは描く絵決まったの?」
「たった今ね。」
「えええ、どうしよ。なんで?二人とも早くない?私まだなんにも決めてないんだけど。」
サキはそう言いながらも焦る様子は無く、マコの向かいに座ると彼女を真似て肘をつき、にこにこと笑った。
日が短くなってきた、僕はそう思う。静かな部室に夕日が強烈に差し込み、部屋は溶けた鉄のように赤く染まっている。彼女ら二人の影は闇のように濃く、どこかドロリとした黒さをもって部屋を横切っていた。
5.
夕食後、自室に戻ったものの特にやることがなかったので机の上の砂時計をひっくり返し、じっと眺めた。五分間、それを最初から最後まで。よく雑貨屋などで砂時計を見かけるとついついひっくり返してしまうので、ならばいっそのことと思い、先日購入したものだ。何も考えたくないときはこれに尽きる。体感的に早くも遅くもなく、そして何より飽きない。一秒よりもさらに小さな時間たちが粒となり、積み重なり、山となり、時間というものを可視化させてくれる。時間は確かに『流れている』のだと実感できる。
何回砂時計をひっくり返しただろうか、ふと我に返ってスマートフォンの画面を見る。しかし誰からも連絡は来ていない。マコはあの公園にいるのだろうか?僕はベッドに飛び込み、少しそのことを考える。ただ思考は安定せず、物凄いスピードで展開する紙芝居のように、次々と過去や今のこと、そしてまだ訪れもしない未来のことが頭の中を駆け巡る。あーだめだ、僕はそう思い、風呂に入るため部屋を出た。
体を流したあと、再度自室に戻った僕は窓を開け夜風に当たる。室内よりも少しキンとした冷たさのある夜風が、さらさらと体を通り抜け、全身の湿気を吹き飛ばしてくれているようだった。移りゆく季節を直に体感している時、なんとなくじっとしていられなくなる。そうして僕は勢いよく窓を閉め、上着を着込んで外へ出た。
6.
コンビニでピザまんとホットのカフェオレを買い、公園へと続く坂を登りながら食べ歩く。空気はすっかり冬の様相を呈していて、夜の空にきらめく星々やビルの灯り、街灯は乾いた空気の中できりりとした輪郭を持っている。この時期になると、毎年のように、冬は長いから嫌いだと思う。しかし、そうやって繰り返す季節に終わりを感じられずとも、僕らは毎年のように歳をとって、毎年どこかで再度季節を迎える。それは気が遠くなるような繰り返しで、生命の終わりすらも凌駕し、この坂道のように長い。しかし坂道は続く、坂は長い、足が疲れた、休息はどこだ?たとえそれが叶ったとしても、休息を取るということはまた始めなければならないのか?休息とはなんだ?いつか休息は終わるのに、また一歩踏み出さなければならないのに、それを受け入れる余地はどこにある?ああ、なんだかマコに会いたい、声が聞きたい、僕が寂しいときに側にいてくれる彼女が好きだ、じゃあ彼女が寂しいときは?知らない、でもそれを悟ってみたいと思う。だから今日だってこうして夜に・・・。
「ショウちゃん!」
ポニーテールを揺らしながら彼女は走って来る。坂道を力強く蹴って、強く息を吐いて、僕の名前を叫び、僕を立ち止まらせて。
「サキ、どうしたの、こんな時間に。」
「後ろ姿が見えて、ショウちゃんだと思って。」
ゼェハァと息をしながら彼女はいつものように微笑む。
「なんだか嬉しいなぁ、こんな時間にこうしてショウちゃんに会えるの。ちょっとした買い物の帰り道とか、用もなくプラプラしているときにこうして友達に会うのって嬉しい。ショウちゃんこそ何してるの?こんなとこで。」
「いや、特に用事はないよ。たまにこうして散歩してるんだ。」
「へぇ。私はちょっと買い物しててその帰り。」
彼女は相変わらずぜぇぜぇと息をしていて苦しそうでだった。別にそこまで全速力で走る必要もないじゃないかと思ったが、そういったところがサキらしいところでもあった。彼女はちょっと待っててと言うと、坂の途中にある自動販売機でミネラルウォーターを買うと一気に半分ほど飲み干した。
「なんかさぁ、まだ私たちが小さかった頃もあったよね、ここでこうして偶然会ったの。」
「ん?そんなことあったっけ?」
「ええ?忘れたの?私たちがまだ年長さんでさぁ。」
「いやいや、幼稚園児のころなんて覚えてないよ!」
彼女は本当に記憶力が良く、ことあるごとにあの時はこうだったよね、あの時はこうしたよね、と尋ねてくる。ただ僕がそのことを覚えているかといえばそうでないことが多いのだ。
「私はお母さんと一緒に習い事から帰ってたところだったんだけど、もう夕暮れも近いっていうのにショウちゃんがこの坂道をとぼとぼ歩いてて、私が駆け寄って声を掛けたら道に迷ったって!」
彼女は嬉しそうにゲラゲラと笑う。
「ショウちゃんそれまでボーッとした顔してたのに私の顔見るなりグスグス泣きそうな目になって『ここどこ?』って言うんだもん。おかしかったなぁ。きっと私の顔見て安心したんだよ、嬉しかったんだよ!」
こうやって昔のことを話すときの彼女はいつも本当に楽しそうで、たとえ僕がそのときのことを覚えていなかったとしてもつい懐かしいような気持ちになって、一緒になって笑わずにはいられなくなる。それでも彼女は昔のことを思い出すと切なくなると言う。
「楽しい思い出ってさ、そのあと暫くはどこかふわふわしたような気持ちが続くじゃない?思い出しただけでフフって笑いそうになったり、泣きそうになったり。だってそのときの感情をそっくりそのまま簡単に取り出せるからさ。でもその感情はだんだんと薄まってしまって、ついには『楽しかった』というだけの記憶しか残らないの。家族や友達と『あの時はさー!』って話していても、その記憶にしっかりとくっついていた感情はもうパリパリと剥がれ落ちてしまっているっていうか、今となっては本当に楽しかったのか本当に悲しかったのか、それすらもあやふや。」
「一般的には、人間は昔のことを美化するもんじゃない?思い出フィルターだよ。つらい記憶さえも美化しちゃう人がいるくらい。」
「みんなそう言うけど、私はそうじゃないな。思い出は綺麗なものだって思いたいし、実際そうだったのかもしれないけど、その時は必死だったり忙しかったりで特に何とも感じられなかったのに『あの時はこうだったなぁ』ってそれを美しく思うのはなんだか変だよ。やっぱり現在進行形でいまその時が楽しく、嬉しく感じられないと。」
人は過去の出来事にすら願望を抱く。こうであったはずだという過去の出来事。しかし彼女は過去のことは悲しみの中だけにあると言う。
「だから・・・。」
彼女はそこで言葉を区切り、一息置いてから再び話し始める。
「だから私は毎日新しい思い出を求めたい。過去の感情が風化していっても、新しい感情がその虚しさを埋めてくれればいい。」
いつの間にか坂道は登り終えていた。カフェオレは飲み干し、ピザまんは食べ終え、そのゴミすらもどこかへ捨てているのだろう、僕は手に何も持っていなかった。空気は冷えて目の覚めるような鋭さも持ち始めていたが、長い坂道を登ったせいか、意識はぼんやりとして現れ、まるで夢を見ているような気分だ。ただ、そうした空気を誰かと、誰かというよりサキとこうして共有できるのはなんだか嬉しかった。もう少しここでこうしていたいような気もする。目の前には高層ビルの灯す航空障害灯の赤い点滅が無数に見えてきた。公園はもう近い。
「なぁサキ、ここからちょっと歩いたところに夜景の綺麗な公園があるんだよ、今から見に行こう。」
「うんうん、そうしよう!」
感情と出来事を埋める言葉
人は喜びや悲しみを感じる時、それをいちいち「言葉」として捉えるだろうか、感情の様々な構成要素をいちいち言葉として捉えるだろうか。
自分が「嬉しい」「楽しい」「悲しい」と感じているとき、なぜ自分がそう感じているのかを根掘り葉掘り事細かに言葉として書き起こしてゆくと、結局は時間を遥か過去にまで遡る羽目となり、生命の根源的要素はおろか、宇宙の起源にまで到達してしまう。例えば、自分が生まれなければその感情が生じる事も無かった訳であるし、それは両親の恋愛や結婚に関わり、そのまた上の世代、知り合うきっかけ、法制度、etc....そして最終的に「ビッグバンによってこの世が誕生したからです」にまで至る。
ただこれはやや不可逆的に思える。要は出来上がった料理はもう食材には戻らないということだ。「今ぼくが嬉しいのは150億年前にビッグバンが起きたことに由来します。」などと言っては物事の前後関係無視も甚だしいし、なにより飛躍しすぎている。生れてこのかた人生に訪れた様々な選択、全身に張り巡らされた神経のように枝分かれしてきたその選択は絶対に辿れない。そんなことをしていたら「タラレバ」は天文学的数値に膨れ上がり、もはや自分の原型など留めることはできないだろう。捨て去っていった可能性にいちいち理由をつけていては年老いて死んでしまうのだ。過去を起点として今へ向かうその全ては語れない。
ぼくはこの点に言葉の限界を感じる。つまり言葉によって感情の「繋がり」を辿ることはできるが、捨て去った選択肢や可能性は語れない。「今の出来事」と「過去の出来事」、「今の気持ち」と「むかしの気持ち」その間には語りきれない何かがある。実は語ることができるのかもしれないが、そんなことをしていては人生が終わる。感情と出来事の間には一体何があるのか、それはわからない。結局は見たもの聞いたものが全てなのかもしれない。だから、今ぼくたちが「嬉しい」とか「悲しい」とか、そんなことを感じているのは「嬉しい」からであり「悲しい」からだ。説明すべきことなどない。
声は顔の一部などではない。
東京の杉並区にあるとある駅、僕は改札前で友人を待っていた。日頃から電車を利用する人にはわかると思うが、通常駅の改札前は目の不自由な人の為に「ピーーーン、ポーーーーン」という誘導音が鳴っている。
だが、聞こえてくるのはそれだけではない。人待ちで手持無沙汰な僕は喧騒を掻き分けある一つの音に辿りつく。
「ここはJR線、東西線改札口です。」
間髪置くことなく次の声も聞こえてくる。
「ここはJR線、東西線改札口です。」
「ここはJR線、東西線改札口です。」
これも目の不自由な人の為の音声案内なのだが、特筆すべきは声のパターンが複数存在しているということだ。全員男の声ではあるが、おそらく十数人分のパターンが存在しており、毎回別人が喋っているのである。確かに聞いていて飽きはしないが、なぜこのようなことをしているのかは不明...(暇なのだろうか…)。
定刻になっても友人は表れないので、僕は暇つぶしにこの音声の「切れ目」を探す事にした、どこかのポイントでループしているはずなのだ。
僕は数分間その声に耳を澄ます。だがこれが全く分からない。全ての声が「さっき聞いたような気がする…」といった状態でさっぱり区別できないのだ。このことによってつくづく人間の音声認識能力は低いものなのだと痛感した(僕の音声認識力が低いだけかもしれないが)。まぁ考えてみれば顔だって覚えるのに苦労するのだから声が覚えられないのは当然なのかもしれない。例え自分の親でも電話口で違う苗字を名乗れば別人だとしか思わないのではないか。
だがその数時間後に僕は気付く。
「歌手の声は一発でわかる」
顔でなく声で認識してもらう世界、やはりその個性は凄いのだと痛感した。
創作 『円』
音は響くことを辞めてしまったのか、その静寂は、気圧変化で耳が詰まったときのそれに近い。聞こえるのは、微かな息遣い、靴底が砂利を転がす音。前後の記憶は無い。僕の主観が最初の景色を捉える。眼前に広がるのは、廃墟寸前の古い建物、長く続く螺旋階段。
「あと少しだから」
僕は彼女の後に続いて、砂でざらつく螺旋階段をゆっくりと登り続ける。辺りには濃い霧がかかっており、視界はすこぶる悪い。延々と続く同じ景色に時間の感覚は崩れ、脳は思考することを停止している。草木に覆われた立ち入り禁止の看板を超えてゆくような、そんな漠然とした不安だけが執拗にまとわりつき、薄く見開かれた目は録画ボタンの押されていないビデオカメラのように、ただただ流れるままに景色を映し出す。それでも僕の体は誰の命令ともなく、また一歩、また一歩と休むことなく歩を進めていた。それは諦めにも似た無心と言うべきだろうか。
ふと彼女が振り、僕の目を見る。長く続いていた階段はあと数段で終わろうとしていた。ようやく屋上に着いたのだ。少し冷えた風は霧を押し流すようにして吹き付けているが、その速度はゆっくりで、なお且つ強い圧力を備えているようだった。その風は少し開いた僕の口へ流れ込み、喉を通り抜け、体の内部から手足の指先までを満たし、視界を通じて全身をこの世界に同調させてゆく。
辺りを見回すと、古めかしさはより一層目についた。ポリエステル樹脂製の巨大な貯水タンクは、まだ中に水が入っているせいか、所々黒くカビのようなものが根を張り、屋上を囲う鉄製のフェンスは酷く錆付き、そこに塗られていたのであろう白い塗料の大部分はぼろぼろに剥げ落ちている。僕はまだはっきりとしない澱んだ頭で、のろのろとフェンスの側まで歩き遠くを眺めたが、たちこめる霧のせいで辺りの様子は定かではなく、どうもこの場所以外に建物は無いということしかわからなかった。風の強弱に合わせ、ひゅーひゅーと管の中を空気が流れるような音が耳につく。
「金縛りにあったことはある?」
彼女は僕の隣まで歩み寄りそう訊いた。
「あるよ。」
「どんな感じだった?誰かの気配を感じたりした?」
「まず、ブーンとした耳鳴りが聞こえる。そのときに『あっ!いけない!』と思うんだけど、もうその時は遅いんだ。既に体は動かなくなっていて、誰かが体の上に乗っているような気がする…いや、誰か、ではないかもしれない。<何か>というほうが正しいのかな。<何か>が居るんだ。その存在は確かに感じるけど、何かが僕の上でうごめいているように見えるだけで、姿、形ははっきりしない。それが本当に怖くて….僕は意識だけで必死に抵抗するんだ。」
「あなたはそれが見えているの?」
「そう言われると、何とも言えないかな…。目は閉じられたままのことが多いみたいだし、見ているのではなく、そう感じているだけなのかもしれない。稀に目が開いたまま金縛りにあうこともあるけど、その感覚が現実のはっきりしたものかという断定はできない。」
「これはわたしの予想なんだけど、あなたが金縛りにあっている時に見ているもの、それは全部夢というか、脳の中で再現されたあなたの視界みたいなものなんじゃないかな。要するにあなたが見ているものは抽象化されたあなたの部屋のイメージだったり幽霊のイメージだったり。たぶんあなたが金縛りの時に見ているものはそれ。あなたもさっき言った通り、金縛りって多くの場合、眼は閉じられているらしいから。 例えば、家具の配置や本の並びなんかは思いだせなくても、入ったことのある部屋の様子は思い浮かべられるでしょう?」
「なるほど。抽象化されるとはそういうことか。それなら、僕の記憶なんて全て抽象化された映像みたいなものだよ。数秒、数分前のことを思いだす事はできるけれど、1から100まで完璧に、細部に渡って思いだす事はできないしさ。」
「まぁ人の記憶なんてそんなものよ。『見たもの』そのイメージをある程度簡略化して記憶することで脳への負担を減らしてさ、毎日いろんなものを見て生活しているわけだし、いちいち全部覚えていたら脳がパンクしちゃうでしょ。」
「確かにね、それは一理ある…。じゃあさっき僕が言った<何か>の存在はなに?」
「それは金縛りというものに対する恐怖心だったり、体が抱えているストレスだったり、捉えどころのない不安みたいなものが具現化されたようなものじゃない?そういった要素は個人によるところが大きそうだから断定はできないけど。」
それだけ言い終えると、彼女はくるりと向きを変え屋上の真ん中へ歩き出す。その足取りは歩くというより、跳ねているようだ。とてもしなやかで、その様子は『歩く』という行為に対して有り余った力が自然と彼女を跳ねさせている、そんな具合だ。
「記憶って花みたいだよね。水をあげたら咲いてさ、少し枯れてもそれでまた生き返る。」
そう言って彼女は笑う。その無邪気な笑い声は、固く捻じり閉じられた蕾が音を立てて花開くように冷たく張りつめた静寂を切り崩し、歯切れよく大気の中へ霧散してゆく。
ふと気がつくと、僕は襖で仕切られた暗く湿っぽい部屋で仰向けに倒れていた。閉じられたカーテンの隙間から漏れる光は、当てもなく浮遊する埃を優しく輝かせている。僕は体を起こし、目を凝らして部屋の中を見回した。畳の床、閉じられた襖、天井から見降ろす古めかしい遺影、仏壇。人の気配は無いが、まだ火がつけられたばかりの線香が鼻につく芳香を散らしている。さっきまで誰か居たのだろうか。部屋は物音ひとつなく、静寂は仏壇の存在を増幅させ、この場所をどことなく神秘的なものに感じさせていた。僕は立ち上がり、閉め切られていたカーテンを素早く開けると、日光が明々と部屋を照らしだす。うすうす感づいてはいたが、明るみに晒された室内を見てやはりここは見覚えのある場所だと確信した。僕は再び床に座り込むと、絶えず押し寄せる懐かしさを元に深く記憶を辿る。神経を研ぎ澄まし、様々な古い記憶を掘り返してみた。だが、出てくるのはこの場所とは関係の無さそうな記憶ばかり。僕は諦め、この場所に閉じこもっている理由もないと思い部屋を出るため襖を開けた。そして、それが決定的だった、目に入ってきた情景は全てを喚起し、全てを生き返らせた。視界に飛び込んできたのは大きなベッド、ゼンマイ式のオルゴールがついた古い電話、和室に似つかわしくないモナリザの絵画、ここは僕が幼い頃に住んでいた祖父母の家だ。そしてこの部屋は祖父の寝室で、仏壇のある部屋が祖母の寝室だろう。込み上げてくる懐かしさ次第に消え去り、それは古いものを眺めたり、触れたときに感じる、積み重なった時間がその物体や空間に染み付き醸し出す重たげな気持ちに変化していった。ただ時間の経過など感じられるはずはなかった、なぜならここは何年も前に取り壊されているのだから。
僕は祖父の寝室へ足を踏み入れ、ふと窓の外を見る。すると向かいの道路の少し離れたところに無表情で佇む6,7才くらいの幼い少年がいる。直立不動でどこか悲しげに俯いていたが、その目はしっかりと僕を睨みつけていた。
次に目が覚めたとき、僕は広い公園の真ん中に立ち呆けていた。ここもどこか見覚えのある場所で、恐らく先ほどの祖父母の家からそう遠くないところにある公園だろう。夕暮れ時なのか、辺りは薄くオレンジ色に染まっており、人ひとり居なければ物音ひとつなく、完全な沈黙に支配されている。そしてそれに抗うように、心臓の音がそっと体の中から浮き出てくるように聞こえてくる。僕は木製の古いベンチに腰を掛けると、何をするでもなく、ただ目の前にある路地を眺め続けた。誰かが通る気がしたのだ。いや、正確に言うならば、それを待たなければならない気がしたのだ。
時間は刻々と過ぎてゆく。しかし暗闇が訪れる気配はなく、夕日は不気味に遊具を照らしている。落ちる影は完全な無を体現するかのような深淵で、どこか粘り気を含むように黒々としていた。ブランコはまるで固定されているかのようにピタリと止まり、ジャングルジムは酷く錆付き、砂場は寂しげに放置されている。
『風がないからこうも静かなんだ。』
まるで人々から忘れ去られたかのような公園、微動だにしない世界、絵の中の世界へ飛び込んだようだ。過ぎゆく時間に比例して静寂は増してゆく。これは本当に静寂なのか、僕の耳が聞こえなくなってしまっただけなのではないのか、そんな気さえしてくる。静寂の限界、耐えかねた僕は叫び出したい衝動に駆られる。人が踏み込むべきではない種の静寂、"ここにいるべきではない"と無言のうちに伝える静寂、心臓の鼓動その合間を引き延ばしてゆく静寂。深刻さは増し、色彩は失われ、世界の上下は入れ換わり、激しく回り始める。これは本当に静寂なのか、単なる孤独なのではないのか、いや、孤独だからこその静寂なのか、いずれにせよ己の中にあるものが煩すぎる!!
霞み、揺れ動く視界の中、振り子がすっと動くようにそれは表れた。老人が子供を背負って歩いてくる。僕はなんとか立ち上がり、ゆっくりと一歩一歩確かめるようにして彼らに歩み寄る。だが老人は僕に対して見向きもせず、水平線を眺めるようにその視線を遠くに漂わせていた。眉間を流れる汗は純真さの証明のようで、眠り重たくなった子供を抱え弾む息には迷いが無かった。
もちろん僕にはわかる。その老人は在りし日の祖父で、その小さくも安寧に満ちた背中ですやすやと眠る子供、それは紛れもなく幼き日の自分自身。
涙が頬を伝う。泣くということがこんなにも強い感情を伴うのか、僕はそんなことすらも忘れていたのか。涙は、不条理、不安、後悔、様々な感情が飽和して体から押し出されるように溢れだす。照りつけていた夕日は波が引くように夜空へと還り、涙は僕を飲みこんでゆく。
『一人は寂しい。』
あの日の僕は祖父母の家の前で立ち尽くしている。憎しみに満ちた、今にも泣き出しそうな顔で、意識だけの存在である僕を睨む。『そんな顔で、そんな目で見ないでくれよ、君はなにもわかっちゃいないよ、これは君の『末来』じゃないか、もういい加減同じものを見ようぜ、ここから先は任せてくれよ。』
彼女は屋上の中心にある古いベンチに腰掛け、大きなあくびをするとその腕で顔を拭った。そしてあくびを引きずったかのような、どこか間抜けな調子で語りだす。
「泣くって行為はさ、やっぱ大ごとなんだよね、ただ涙が流れるだけなのに、それが自分自身の制御下にないんだから。」
「うん。」
「感情が込み上げるだけで制御できないものがある。」
「うん…。」
辺りは真っ暗だ、出入り口の扉だけが赤い照明に照らし出されている。錆付いたノブがゆっくりと回り、ドアは開く。しかしここへは誰も入っては来ない。ただ微かな風と、線香の匂いだけが舞い込んできた。さよならは何のためにあるのだろう、なぜさよならを言わなければならないのだろう、また会えると思いたいから?もう会えないかもしれないから?言葉だけでも、上っ面だけでも同調したいから?
「過去にさよなら。」
「過去が今にさよなら。」
もうこれで抽象的なものは何もない、ひとつとして記号などではない、全ては一致を見る。